第6話

「なによ、夕方に『今夜飲めるかって』いきなりメールしてきて。私、そんな暇じゃないんだけど」

 遅れて店に入って来た小夏は、膨れながら椅子に座った。それと同時にカウンターの向こうにビール、とオーダーをする。

「昨日の昼間会ったばっかりじゃない。なに? カンボジアの話? なんか聞きそびれた?」

 小夏は左肘をついて、右隣の智希の顔を覗き込む。が、その顔を見て「えっ」と声を上げて、智希の前にある升を見て驚きの声を上げる。

「いきなり日本酒? もう始めてんの!?」

 先に店に入っていた智希のグラスは空になり、グラスを入れていた升の中の日本酒はもう半分しかなかった。

「・・・・・・いいだろ、別に」

「別に悪くはないけど・・・・・・」

 既に酔っており、不貞腐れた気持ちを隠さずに投げやりに話す智希を、小夏は否定しなかった。


 結局里美への苛立ちが抑えきれず、いや仕事中もふつふつと増大していくことに耐えられなくなり、夕方智希は小夏にメールをしたのだった。

 小夏はすぐにOKの返事をくれた。そこで代々木上原の金沢料理を出すこの居酒屋で、会うことにした。


 カウンターの向こうから、お通しのふぐの卵巣のぬか漬けとビールが出てきた。小夏はグラスを少し上げ、智希を見たが智希はうつろな目のまま、反応しなかった。小夏は小さくため息をつき、グラスに口をつけた。

「なに、どうしたの? なにがあったのよ」

 智希は小夏の方を向く。その顔は苦痛に歪んだように、眉間に力が入り口角が下がっていた。黙ったまま小夏を数秒見つめたのち、口を開けた。

「──なんで」

 掠れた声が出る。

「なんで、カンボジアに行ったんだよ。急に。何も言わずに」

 睨むような目つきで小夏を見つめ、下唇をかみしめる。小夏はその視線を一旦は受けたが、耐えきれなくなって、顔をカウンターの方へ戻し目線を落とした。

「別に智希に言う必要なかったでしょ。友達だったけど、高校卒業以来全然会ってもなかったんだし」

「そういうことじゃないだろ!」

 智希は声を荒げると強引に小夏の手首をつかみ、顔を自分の方に向けさせた。


 カウンターと、奥に個室の座敷があるだけの店内は、こじんまりとしているがそれなりに人はいた。けれどみんなちらりと二人を見ただけですぐに視線を外した。それが都内の店で飲む場合のルールであるかのように。

 智希の強引さに驚き目を見開いていた小夏だが、すぐに冷静さを取り戻してそっと呟いた。

「手、離してよ」

 諭すように言う小夏の声に智希は我に返り、声は出さずに小夏の手首をそっとカウンターの上に置いた。


「同じのください」

 小夏は智希の升を指さし、カウンターの向こうに声をかけた。

「俺も」

 小夏は目で”飲みすぎよ、辞めなさいよ”と制したが、智希はそれを無視した。

 そんな智希の姿を見た小夏は、観念したかのように深くため息をついた。


「思っていたより、大したことなかったのよ」


「えっ!?」

 思ってもみなかった言葉が小夏の口から出て、驚きで一気に酔いがさめるかのような気持ちになる。

「それはどういう──」

「高校生の時は智希のことが大好きだった。ずっとずっと里美ちゃんから智希を奪いたかった。二人が別れればいいのにって、何度も思った。だけど智希と実際ああいうことになって、ずっとずっと願っていた通りにあなたに抱かれたのに、その瞬間に『なんだこんなものかって』」

「なんだよ、それ・・・・・・」

 智希は屈辱で顔を真っ赤にして、悔し気な声をあげる。その様子に気づいた小夏は、慌てて訂正する。

「ちがうって、そういう意味じゃなくて! 抱かれて初めて分かったの。私にとってはもう完全に過去のことだったのよ。智希への気持ちも、里美ちゃんへの嫉妬も」

 いつの間にか前に置かれていた升に智希は手を伸ばした。升の中のグラスに口をつけ、少し気持ちを落ち着かせてから声を出す。


「俺とあんなことになったから、小夏は消えるようにカンボジアに行ったのかと思ってた」

「相変わらず自信家だな、智希は」

 小夏は両ひじをつき手を組んでその上に顎を乗せた。薄く笑って、そっと息を吐き出す。

「同期会の時はもう、カンボジアに行く気ではいたの。でもせっかく就職を決めてたし、私は一人っ子だし、迷ってたんだけどさ。あんなことがあって、ずるずる始まっちゃったら嫌だなって思って。断りきれるか正直分かんなかったしね。だから智希が原因でカンボジアに行ったわけではないかな。きっかけではあったけどね」

「そうか」

 思ってなかった小夏の言葉に、酒のせいか智希は落胆を隠しはしなかった。


「俺は・・・・・・あのあと、ずっと小夏のこと考えてた。里美が、小夏みたいに自由で自立していたらどんなにいいかって何度も考えた。俺と違う大学に行って、俺の知らない会社に勤めて・・・・・・って。どうしてそうしないんだろうって──」

「なに言ってるの」

 智希の言葉を、小夏はそっと遮った。

「そういう、常に智希の背中にぴったりとついて、後ろからそっと歩く子だから好きになったんでしょう」

 小夏の言葉に、智希は声を出さずただ首を横に振る。

「ハンカチ、見せてよ」

「ハンカチ?」

 小夏の唐突な言葉に話の流れが飲み込めずに、智希は聞き返す。

「いいから、ハンカチ見せて」

 それでも押し切る小夏に、智希は訳が分からぬままお尻のポケットから四つ折りにされたハンカチを取り出した。


「すごいね、アイロンがきちんとかけてある」

「・・・・・・」

「私、アイロンってかけたことないのよ。向こうにいたときはそんなもの必要なかったし、こっちではシャツは全部クリーニング」

「・・・・・・」

「料理もほとんどしないな。仕事が忙しくて。里美ちゃんならきっと、朝からきちんと作るんでしょう? 私は無理よ。智希はいやでしょ、そんなの」

「そんなこと!」

「家で東南アジアの経済状況とか、会社の経営について語りだしたら? 智希はそういう彼女、好きじゃないよね。だから私じゃなくて里美ちゃんを選んだのよね」

「あの頃は分からなかったんだよ。女の子の前で、ただいいカッコしたかった。それに気が付いたときはもう──」

 智希は隣の小夏をじっと見つめた。座っていると二人の身長はほとんど変わらなかった。アイロンも料理もしないという小夏の顔はきちんと化粧がされ、黄色のボートネックのシャツに白の半袖のジャケットを来ていた。耳にはパールのピアスが光る。

──どれも、里美にはないものだった。


「里美は好きだった。だけど小夏も欲しいと思ったんだ」

「真顔で調子いいこと言わないでよ」

 小夏は半分笑い、半分あきれ果てた“どうしようもないな”という表情をして、カウンターの向こうにお勘定お願いします、と言った。

「もう出よう」

 それは姉が、弟を諌めるかのようだった。


 店のある代々木上原は、駅から少し離れると住宅街が広がってる。だから路地裏にあるその店の周りも人通りはなかった。智希の後から店を出てきた小夏が入り口の引戸を閉めると、智希はなにも言わずに小夏の後頭部を左手で押さえた。

 小夏の髪からほんのりシトラスの香りが鼻腔をくすぐったが、それには構わず、智希はくすみがかったブラウンが光る小夏の唇に、自分の唇を押し当てた。


──小夏は、受け入れることはしなかった。


 唇を重ねただけで、そっと手で智希の胸を自分の体から離した。

「ダメだよ」

「──なんで」

 今まで小夏にも里美にも断られたことなどなかった智希は、拒否する小夏を受け入れられない。引き下がろうとせず再び顔を近づけた。

「里美がいるからか」

 お互いの顔が近い距離で小夏が首を横に振った。短い髪が揺れ、またシトラスの香りが漂った。

「そんなきれいごとは言わない。さっきも言ったでしょう、ずっと里美ちゃんから奪ってやりたいと思ってたって」

「じゃあ!」

 智希は更に顔を近づけ、唇に触れるか触れないかという距離になったとき、小夏は今度は強く智希の胸を押し出した。


「今のあなたはあの頃のあなたじゃない! 私が好きだったあなたじゃない!」


 眉間に力を入れ、悲鳴にも似た声をあげる小夏。智希は押し返されたまま呆然として、腕をだらりと下げて立ち尽くした。

「そりゃあ・・・・・・」

 高校の時と違うのは当然だ。大人になり、社会人になり──あの時と同じでいられるはずがない。

 しかし小夏の答えは、智希が全く考えていないものだった。


「きちんとアイロンがけされたハンカチを持って、そのシャツだって里美ちゃんが選んで、いつもアイロンかけてるんでしょう?」

 小夏は智希が着ている半袖のシャツを見つめる。白地に黒の縁取り、襟の部分にも同じ黒の飾りボタンがついている。これは確かに里美が選んで、アイロンをかけているものだった。

「パンツも靴下も、里美ちゃんが選んでるんでしょう。里見ちゃんが買ってきたシャンプーで髪を洗って、里美ちゃんが選んだ歯磨き粉で歯を磨いて」

「・・・・・・なっ」

 小夏の言葉に、智希は顔を歪める。

「あなたはあの頃のあなたじゃない、今のあなたは里美ちゃんが作り上げたあなただわ」


──あの頃の自分ではないという、意味が分かった。


「今のあなたは里美ちゃんでできてるの。そんなあなたと一緒にはいたくないわ」


 小夏はそう言い捨てると、振り返りもせずヒールの音を甲高く響かせて去っていった。智希は焦点の合わない目でそれを呆然と眺めることしかできなかった。

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