第5話
「・・・・・・・おはよう」
「おはよう」
翌朝、昨夜断ったせいで不機嫌かと警戒したが、里美はいつも通り白いエプロンをつけて、いそいそと朝ごはんの支度をしていた。面倒回避と智希はそっと安堵のため息をついた。
智希の椅子の前には、いつものようにご飯と味噌汁、鮭の切り身があった。本当はご飯は重いのでパンにコーヒーがいいのだが『栄養的にごはんがいい』と里美は言い張り、今に至る。まあご飯の炊ける匂いで目が覚めるのも、幸せだとは思っているけれど。
──ごはん。ああ。
「なあ、今月ちょっとお金足りないんだ。今週も企画会議のあとに飲みに行くと思うし。二万円くれない?」
「ええー?」
智希がご飯を食べながら財布の中身を思い出して心配していると、まだ目を擦って眠そうな優愛と海翔を寝室から連れ出してきた里美が、不満気な声をあげた。
「この前もそう言って二万追加してなかった? なんで? 飲みすぎなんじゃない?」
口を尖らせる里美の態度に、智希はムッとする。
「仕事だろ? なんでそんな言い方するんだよ。別に飲みたくなくても、円滑に進めるために飲まなきゃいけないときもあるんだよ」
普段は穏やかな智希の強い口調に、里美は口を横に結んで黙り込む。少しの沈黙の後で分かったと低い声で呟いた。あまり納得していない表情だが、子どもの前で言い争いは避けたいのだろう。渋々といった表情でリビング横の和室に入り、少しすると一万円札を二枚持ってきた。
「どうぞ」
「悪いな」
あまり悪いとは思っていないが、智希はそう軽く言うとテーブル横の通勤カバンから財布を取り出す。一万円札を入れて、再びご飯を食べ始めた。
里美はまだぼーっとしている海翔を抱っこして椅子に座らせ、先に食べ始めている優愛の髪の毛をごはんに入らないよう縛っていた。
智希は食べ終わると手を合わせ、まだ食べている優愛と海翔、これから食べようとしている里美を残して席を立つ。自分の食器を重ね、キッチンの流しに持っていくと背後で里美が自分の名前を呼ぶ声がした。
「なに?」
キッチンから戻り、里美の顔を見ると嬉しそうな顔をして、朝のニュースをつけているテレビを指差した。
「見て、カンボジアだよ!」
里美の言葉にぎょっとなり、背中に冷たい汗が伝うような感覚を覚えたが、努めて冷静に声を出す。
「カンボジアが、どうかしたの?」
画面は世界を紹介するミニコーナーで、今日はちょうどカンボジアのアンコール・ワットをキャスターが訪れているところだった。里美の顔を見るのが怖く、智希は画面から目を離さないままでいた。
「カンボジアって言ったら小夏先輩が行ったところでしょー? 元気かなあ?」
里美の口から小夏の名前を聞くなんて、何年ぶりか。同じ部の先輩後輩なのだから、小夏の話をしてもカンボジアに行っていても全く不思議はないのだが。
小夏と再会したことは、別に隠すことではない。過ちを犯したのは遠い昔のことだ。この前かつての同級生に会ったと、ただそう言えばいいだけなのに──
言うことができなかった。過去のことを引きずっているのか。後ろめたさはまだ心にあるのか。
「もう、会社行くわ」
里美の問いかけには答えずに、智希はリビングを離れた。
異変に気がついたのは、昼過ぎに学習漫画の作家と喫茶店で打ち合わせをした時だ。会計で会社支給のクレジットカードを出す時に、私用のカードがないことに気がついた。どこかに忘れるとは考えづらい。作家を送り出すと、智希は路地に入り携帯のボタンを押した。
「俺のクレジットカード知ってる?」
里美はすぐに電話に出た。かかってくるのが分かっていたかのように。
仕事中に電話をかけてきて、不機嫌な声で切り出した智希に対して里美は驚くこともせず、しれっと続けた。
「知ってるよ。今朝、抜いたもん」
「はああああ!?」
悪びれない里美の態度に、智希は声を荒げる。電話の向こうは静かだった。優愛と海翔に昼寝でもさせてるのか、テレビでも見せているのか。
「なに勝手に人の財布開けてるんだよっ」
一歩先のさっき打ち合わせをしていた喫茶店がある通りには、沢山の人が行き交っていた。智希が入り込んだ路地には住宅街となっていて、特に人は歩いていない。そこで智希は堪えることができずに大きな声を出し、苛立ちを里美にぶつけた。
「だって智希、飲んでばっかりでさ。私なんて優愛を妊娠してから五年以上、一回も飲みに行けてないのに」
「なに訳の分かんないこと言ってるんだよ! 仕事だって言ってるだろ!?」
突然不満をぶつけてきた里美に、智希の胸には怒りしか訪れてこない。しかし里美も負けてはいない。同じ剣幕で電話の向こうから返してきた。
「こっちは毎日一生懸命ご飯作って、二人の子どもの世話をして、寝る時間も自分の時間もないのに! 智希は自由に飲んでくる、食べてくるって!」
「だから仕事だろ! 行きたくて言ってる訳じゃないんだよっ!」
なぜ酒飲んで食べたら、全部楽しくなると思っているのか。上司の講釈を聞き、後輩の悩みに答え、取引先を気持ちよくさせ・・・・・・それが楽しいとでも思ってるのだろうか。そんな飲みの席、大半がさっさと家に帰って風呂入った方が楽しいと言うのに。
「仕事なら会社から補助が出るでしょ、仕事なら会社支給のカードを使えばいいでしょ」
正論だが正解ではないことを、平日の昼間からぶつけてくる里美にイライラしてくる。こっちはこれから会社に残って仕事をこなさないといけないというのに。付き合っていられない。
「とにかく! それとこれとは違うんだから返せよ!!」
そう言い放つと、智希は乱暴に通話ボタンを押して会話を終わらせた。電話を切ってもふつふつと怒りがこみ上げてくる。
──こうして俺が働いている昼間、自分はママ友とファミレスでランチしてだらだらと話してるくせに!
一日家で子どもの面倒を見て、家事をこなしていて大変だとは思っている。だから自分が働いている昼に外食しようと、夕飯が手抜きのお総菜になろうと、文句など言ったことはなかった。
なのにこっちは仕事の一環だというのに、飲みすぎだとか、自分は遊ぶ暇がないとか意味が分からない。
──無理もないのか、社会に出たことがないから。
怒りが収まらぬまま会社に戻ると、向かいの席の先輩と横の新入社員が席に座ったまま、なにやら話をしていた。
「あっ噂をすれば、智希」
「なんすか」
いない間に、どうやら二人は智希のことを話していたらしい。気持ちを切り替えねばと思うのだが、ついつい不機嫌な声を出してきまう。
どかりと椅子に腰を下ろすと、更衣室で使ってきた汗ふきシートの香りが自分の体からぷんと辺りに漂った。
「いやあね、智希は高校時代の彼女とずーっと付き合った末に結婚したんだよーって」
「・・・・・・」
智希は目を細め小鼻をひくつかせて、更に不機嫌そうな顔をする。今一番聞きたくない話を人がいない間に、何してるんだよと口のなかで呟く。
「いいっすねー! ずっと彼女だけなんて! 彼女の卒業を待って結婚かあ。ロマン感じるなあ」
「・・・・・・」
「そうなんだよ、こいつは彼女しか知らないんだよ。羨ましいよなー」
「・・・・・・」
──お前らホントに羨ましがってるのかよ。新入社員は百歩譲ってロマンを本気で感じてるかもしれないけど、先輩は絶対バカにしてるだろ。
智希は勝手にあーだこーだ言う二人に、心のなかで激しく毒づく。
確かに里美のことは好きだ。出会った時からずっと好きだ。だけど高校も大学もずっと一緒で、社会に出た途端に結婚して──これで良かったのかと、時々重い後悔にも似た気持ちが、胸のなかを巡ることがあるのだ。
だって選択肢がなかった。ちょっと待ってくれと思っても、迫ってくる里美は智希に他の道を許してはくれなかったのだ。
普段は、特に恋愛に悩むこともなくさっさと結婚に至り、都内にマンションを購入し、それなりに仕事をし、二人の子どもに恵まれた自分を、器用にうまく生きてるなと思ったりする。しかし今日のように──里美が智希を締め付けたりすると──これでよかったのか、もっと色々な人を見て結婚するべきだったんじゃないかと思うのだった。
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