第4話
今日は二人の子どもは昼寝をあまりしなかったとかで、夕飯を食べながら半分眠っていた。寝ぼけた二人を寝室のベッドに運ぶ。寝かしつけしないですむこんな楽な日は、今までに数えるほどしかなかった。 そこで智希は冷蔵庫から発泡酒を取り出し、里美と並んでソファに座り、テレビを見始めたのだった。
「あっ、このお店素敵ー! こういうところ行ってみたいなー!」 里美が声をあげる一方で、隣の智希はぎょっとして目を丸くした。テレビには、今日小夏と行った代々木公園のカフェが写っていたからだった。 チョコレートリキュールをかけるアイスがおいしいとか・・・・・・。確かに店内に人はそれなりにいたものの、一応仕事の取材という名目だったし、店なんて特に気にしてなかった。小夏のオフィスに近いというこの店を、指定されて行っただけだった。 小夏と会ったその夜に、会った場所を里美とテレビで見るとは。
「いいなあ、こんなおしゃれなところ行ってみたいなあ」 すっぴんで半袖短パンのパジャマを着て、肩上の髪を一つに縛り上げた姿でうらやまし気な表情を見せる里美。心が痛まなくもない。「行ったらいいじゃん。週末、俺が優愛と海翔を見てるからさ」「え~遠いよ、代々木公園だよ」 結構妻を思いやった申し出だと思うのだが、里美は喜びはしなかった。大体遠いというが、我が家は23区外だけど一応東京だ。お茶の水にある智希の会社より近いというのに。「私さあ実家も東京の端の方だし、大学も山の方に行っちゃったから、こういう都会に縁がないんだよね」 だったら都心の大学に行けば良かっただろうと智希は言いかけたが、ぐっと言葉を飲み込んだ。返される言葉が容易に想像ついたからだ。智希は押し黙って、発泡酒をあおった。 里美はこう言うに違いないのだ。"だって智希があの大学に行ったから──"と。
智希は受験勉強がかったるくて、指定校推薦で大学に行った。とはいえ、マスコミに興味があったからどこでもいいというわけではなく、きちんも社会学部を選んだ。そしたら翌年、里美も智希と同じ大学同じ学部同じ学科に入ってきたのだ。 里美のことは好きだった。大好きだった。だけど社会学など一切興味もなかった里美が、自分と全く同じ道を選んだことに智希は驚いた。いや、引いたといってもいい。 理由を問うとそんな智希の気持ちなど全く分からない様子で、里美は言った。だって智希がいるから、と。
その一方で難関国立大に一浪して入学した小夏。このことは友達伝いに聞いた。 高校卒業を機に、小夏とは連絡を全く取っていなかったからだ。携帯やSNSがあまり普及していなかった時代。自分達の前にはそれぞれの新しい世界が広がっていて、それに馴染み、過ごすことにお互い精一杯だったのだ。それは当然の流れだったと思う。 とはいえ智希の新しい世界では、よく見知った彼女がすぐそばに貼りついていたわけだが──
カフェに行っていいよと言っているのに、相変わらず口を尖らせてテレビを見ている里美を横目でちらりと見る。 小夏と再会したことは、里美に話していない。 再会したのは偶然だし、今日このカフェに行ったのは仕事だし。大体女性と外で会ったなど、仕事だと言っても嫉妬深い里美が納得するかどうか。 いや、単純に言いたくないだけか──
もう一度そっと隣の里美を見ると、視線を感じたのか里美もこちらに顔を動かし目が合う。あまり強くない里美は発泡酒を一本飲んだだけで、顔は赤らみ目は潤んでいる。「──ねえ」 里美が上目遣いで智希を見つめ、少し鼻にかかるような甘ったるい声を出す。智希は思わず息を呑む。「優愛も海翔も、今日はもう寝たね」 智希のTシャツの袖を少しつまみ、はにかむように言う里美は可愛いと思う。が。
「・・・・・・明日、企画書の提出期限なんだ。ちょっと見ておきたくて」「えー? そうなの?」 少し恨めしそうな顔をして、里美は片方の頬を膨らませる。「ごめんな」 智希は軽く里美の頭を叩くと、納得半分不満気半分と言った調子で里美は首を小さく縦に振った。「わかった」 少し不貞腐れたように下を向いたまま、里美は立ち上がる。そしてじゃあもう寝るねと言って、寝室に消えていった。 企画書の提出期限は明日だ。別に嘘は言っていない。 智希は寝室のドアを見つめる。里美はドアを開けてもう一度リビングに出てくることはしないだろう。寝室で智希が来るのを待っているかもしれないが──
立ち上がると、智希はリビングにつながっている和室の引戸をそっと開けた。エアコンの効いていない和室には、昼の熱気といぐさの匂いがこもっていた。電気もつけずにリビングからの明かりを頼りに、押し入れのふすまを開け、下の段のアルバムが収まっている段ボールの隙間から一本の瓶を取り出す。 山崎のシングルモルト。里美は発泡酒しか買わせてくれない。だから部署の積立金が返金になった時に、買ってここに置いておいたのだ。里美が早く寝たときに少しずつ飲んでいるのである。自分でも情けないとは思うが。 グラスに氷を入れ、ウイスキーを注ぐと再びソファに座った。ソファ用の低いテーブルの上にグラスを置き、ぼんやりとグラスとその影を眺める。 さっきの里美の表情を思い浮かべた。そして──
里美は家の中に限らず、殆ど化粧をしなくなった。子どもが顔に触れてくるからというのが理由で、普段は日焼け止めとマスカラしかしないらしい。母親としてその通りだと思うし、それでいいと思う。いつもダボっとしたTシャツだろうとパンツだろうと、ワンピースだろうと、それでも里美は里美だ。昔から大好きな里美だ。いや家の中でばっちりメイクをされたり、ファッションに凝りだしてもそれは何かが違う気がする。
テレビで紹介する店を遠い世界のように言ったり、子どもやママ友の話、智希の知っている狭く身近な世界の話ばかりをする里美を可愛いと思う。自分が望んだ妻なのだと思う。家で自分の知らない外国の話や、起業の話、世界情勢を話されても、気が休まらないと思う。置いていかれるような気になると思う。だけど・・・・・・
グラスを手に取り、そっと口をつける。木を燻ったようなウィスキーの香りがぷんの鼻の奥まで通り抜けた。智希は少しうつむき、じっとテーブルを見つめる。
里美は、自分しか知らない。 初めて付き合ったのが自分で、高校も大学も一緒だった。智希が先に社会人になり、ようやくこれからは別々の世界を見ていこうと思っていたのに、里美は就職活動をせずに卒業したら家庭に入りたいと言い出したのだ。 確かに里美といつかは結婚しようと話していた。だけどそれは夢物語で、働いてすぐ結婚なんて全く考えられなかった。取り敢えず就職するよう、何度も里美を説得した。結婚はまだ早い、急ぐ必要なんかないじゃないか、と。それでも里美は首を縦に振らず・・・・・・
──そんな時だった。部活の同期会で、小夏に再会したのは。
二月の終わりだった。一浪してまだ工学部の学生だった小夏は、建設会社に就職を決め、先月行ったという卒業旅行の話を目を輝かせてしてくれた。カンボジアの過酷な環境と、それにも負けずに笑顔でいる人達と、そしてこのままでは近いうちに崩れてしまうであろうアンコール・ワット遺跡の話と──
目標に向けて一浪の末に志望大学に入り、そこで好きな研究をしていた小夏。橋や道路を建設する会社に就職を決め、入社後に役立つだろうと卒業旅行先を東南アジアにした小夏。──眩しかった。 好きだとかそういう気持ちじゃない。小夏に恋愛感情を抱いたことはない。だけどその眩しさに惹かれた。ただその輝きに心を奪われたのだ。 一方で自分は指定校推薦で入れる大学に進み、ゼミの推薦枠で入社し、高校の時からずっと一緒にいる彼女に結婚を迫られ悩んでいる──。
自分は器用にたいした障害もなく人生を進んでいると思ったのに。なぜ、こんな。
同期会の会場の居酒屋で、気がつけば智希は小夏と並んで話していた。高校時代だってそうだった。二人並んでバドミントンの話をしたり、お互いの得意教科を教えあったり、くだらないお笑いの話をしたり。高校生の時は廊下でこんな風に小夏とつるんで、よく話したりふざけたりしたのだ。学年ごとにフロアが違う高校では、休み時間の廊下には里美は現れなかったから。 だから今でも智希が里美と付き合っているのはみんな知ってはいたけど、小夏と二人で話していても誰も咎めはしなかった。
いつの間に酒も進み、智希は愚痴り出していた。いつも自分のそばにいたがる里美のこと、智希しか知りたがらない里美のこと──
気がついたら、小夏が智希の顔をにらんでいた。「なんなの? それ。里美ちゃんの文句ばっかり」「文句じゃないよ。だけど俺まだ二十三歳だよ、大学出て一年だよ。就職せずに結婚したいって言われてみろよ。大学も同じ学科にまでついてきて・・・・・・好きだけど、息苦しいんだよ。なんでそんなに一緒にいなきゃいけないんだよ」 友だちには決して言わない愚痴を口に出し、智希は顔を歪める。自分の友だちは必ず里美につながっているからだ。それなのに、五年ぶりに会った小夏に何故話しているのだろう。酒のせいか。小夏なら受け止めてくれると思ったのか。小夏だって、里美のことは部活の後輩としてよく知っているのに。「それだけ里美ちゃんが智希のこと、好きだってことでしょ。愛されてる証拠じゃない」 ため息交じりに呆れた声を出す、小夏。「・・・・・・」 そんなことは、分かっている。智希は押し黙り、十分酔っぱらっているのに更に目の前のビールをあおった。
だけど次に小夏の口から出てきた言葉は、全く予想していなかったものだった。
「私ならそんな愛し方しないけどね。私も、相手も自由でありたい。同じものを見ていなくたって、同じ空気を吸っていなくたって、それが好きじゃないってことにはならないもの」「・・・・・・かっこいいな、小夏は」 智希はポカンと口を開けて、隣の小夏を見つめた。あの頃と同じショートの髪に、自分と同じくらいの背丈。でも今は、切れ長の目にはマスカラがつき、唇はライトで光っている。それでも男前なところと真っ直ぐなところ、はっきりした物言いはそのままだった。
「かっこいいって」 小夏は目を伏せ、視線をしたに落とす。頬にまつげの影が落ちる。「だけど智希はカッコ悪いな。辞めてよ、私に里美ちゃんの愚痴言うのは」「・・・・・・ごめん」 悪く言ったつもりはなかったのだが、格好悪いと言われて素直に謝る。だって自分でも格好悪いと思っているから。だから今まで他の誰にもぼやけなかったのだから。
「私がどんな気持ちで智希のこと、諦めたと思ってるの」
「えっ?」 全く想像していなかった小夏の言葉に、智希は目を見開いて小夏を見つめた。小夏は恥ずかしがることもなく、目を細めて薄く笑い、光る唇でかつての想いを口にした。「高校の時、私はずっと智希のこと好きだったの。一年の時からずーっと。気がつかなかった?」「・・・・・・気がつかなかった・・・・・・」 自分は小夏のこと、気の合ういいやつだと思っていた。それ以上でもそれ以下でもなくて、小夏も同じ気持ちだと──「あーあ、可哀想だったな。高校生の私」「えっ、いや、それって、えっ?」 突然の告白に、智希はひどく動揺した。酔ってぼんやりとした頭にはうまい言葉は何一つ浮かんでこず、取り敢えずと慌ててビールのジョッキに手を伸ばす。動揺のあまりか、伸ばした指は取っ手ではなくジョッキそのものに勢いよく当たり、四分の一ほど残っていたジョッキを見事に倒してしまった。
「うわっ!」 慌ててジョッキを戻すが、ビールは少しテーブルにこぼれて辺りに飛び散った。慌ててジーンズのポケットからハンカチを取り出し、小夏に向ける。「ごめん、濡れた? 大丈夫?」「大丈夫だって。濡れなかったよ」 小夏は智希の慌てぶりに苦笑し、そして智希が取り出したハンカチを指差した。「またえっらいシワシワなハンカチ出すね」「──あ」 アイロンなどまずかけないハンカチは、パンツのポケットに押し込まれ、見事に皺だらけだった。「ごめん」 恥ずかしくなり、智希はハンカチを両手で引っ張るとポケットに再び押し込んだ。「そういうとこ」 小夏は小さく吹き出した。口を押さえることもせず、ついさっき昔の想いを伝えたばかりだというのに、ケラケラと笑いだした。「え?」 その表情とテンションの変化に、智希はついていけない。ぽかんとまだ笑い続ける小夏を、呆気にとられて見た。「しゅっとした感じに振る舞うのにさ、後ろ髪が寝癖で立ってたり、ごはんつぶを服につけてたり、おしりのポケットの裏地が出てたり。そういうとこ可愛かったあ」 からかわれているのだろうか。可愛いと言って笑う小夏に戸惑い、智希は曖昧な笑みを浮かべて少し首をひねった。小夏はそんな智希に、肘をついた手の甲に顎を乗せ、切れ長の目をさらに細めて微笑んだ。「そういうところ、大好きだった。すっごく好きだったのに、いっつも里美ちゃんが好きって話ばっかりしてくるから、伝えることも奪うこともできなかったよ」 そう言うと、小夏は首を傾けて隣から上目遣いで智希を見つめた。ショートの髪の隙間から、小さなクリスタルのピアスが揺れてライトを反射させた。
小夏と付き合いたかったわけじゃない。 小夏に恋愛感情があったわけじゃない。 里美と別れたかったわけでもない。 だけどただあの夜は、俺は小夏を求めていた。小夏が欲しいと思ったのだ──
同期会がお開きになり、居酒屋を出て智希たちの代の総勢十五いるの元バトミントン部のメンバーは、駅に向かって歩いていた。一番後ろを小夏と智希は並んで歩く。特に会話はない。
週末のターミナル駅は、夜も遅いというのに多くの人でにぎわっていた。左右に駅ビルがあるコンコースを抜けると改札口がある。智希は堪えきれずに、前を歩く同級生がそれぞれの話に夢中になって、誰も後ろのことなど気にも留めていないことを確認すると、小夏の細い手首を掴んだ。不意の智希の行動に驚いた小夏は、声を上げることもなく、もう閉まっている駅ビル入口の柱の陰に引っ張られた。改札口からは二人が隠れて見えないほどの太い四角の柱。ただ同級生からは隠れただけで、辺りにはたくさんの人がいた。だけどそんなことには構わず、智希は小夏に顔を近づけた。
──小夏は抵抗しなかった。何も言わずに智希を受け入れた。
酒の勢いと言われれば、そうなのかもしれない。 だけど、あの夜はお互いが求めていたのだと思う。そうありたかったのだと思う。
誓って言う。 今までずっと里美だけだった。それから先も、里美だけだ。その場限りも、一晩限りも決してしたことはない。 だけど、あの夜だけは、小夏にそばにいて欲しかった。
罪悪感がなかったわけじゃない。 その証拠に、果てた後は全く眠れなかった。重く苦い気持ちが胸を締め付け、うとうとしてはすぐに目を覚ます、そんな気持ちで朝を迎えた。
昨日みんなと通らなかった改札口を、早朝小夏と通った。「じゃあ」 と短く言って、それぞれのホームに降りていった。 これからの話など全くしなかった。また会うとか、そういうことは一切考えられなかった。
それでも少し日にちが経つと、鳴らない携帯電話に不安を覚えた。 小夏はどう思っているのだろう。このまま、一夜限りにするつもりなのだろうか、と。 二股をかけたいわけじゃない。ずるずると体の関係を続けたいわけじゃない。 だけどそれが恋愛感情ではなくても、小夏を好きだと、欲しいという気持ちもまた自分の中にあることを認めざるをえなかったのだ。
十日ほど経ち、耐えきれなくなって、小夏の番号を呼び出した。 呼び出し音が鳴ることはなく、この電話は使われておりませんという無機質な女性のアナウンスが耳に響いた。メールを送っても、自分の”この前はごめん”のたった一言が宛先不明でそのまま返ってきただけだった。
数週間誰にも言えず、重い気持ちのまま過ごした。 住所も大学も知っているのだから、勿論会いに行くことはできる。だけどさすがにそこまでしようとは思わなかった。連絡が取れなくなったというより、自分との連絡手段をあの晩の後に絶たれた、というのが苦しかった。 その間に三月も終わりを迎え、里美は結局就職先を決めないまま、大学を卒業した。そして四月になり、智希が社会人二年目の新年度を迎えたころだった。この前の同期会に参加したメンバーに、小夏の行方を聞いたのは。
就職を辞めてカンボジアに行った、と。
そして智希はその月に里美と婚約し、秋に入籍したのだった。
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