第3話

「話って? どこら辺のこと聞きたいの?」

 代々木公園近くのカフェで、向かい合った小夏は首を傾けた。真夏の昼下がりは、ジリジリと焼けるような日差しがアスファルトを照りつけている。半地下のこのカフェには、天井ギリギリの高さにある細い窓からその日差しが入り込んでいた。


 この前偶然再会した時の小夏は麻の上下のスーツだったが、今日は白の半袖シャツに紺のパンツ姿だった。

「カンボジアの今の状況について聞きたくてね」

 ボールペンを片手に、智希は話を切り出す。


  智希は教育系の出版社に勤める編集者だった。そこで今度カンボジアの特集を組もうと、小夏の名刺を見て思い立ったのだった。いや、今度というか、いつか使えるネタにしておこうと。


「今の状況?」

 曖昧な話の切り口に小夏は言葉を繰り返して、智希をじっと見つめる。

「いや、まあとにかく、なんで小夏はカンボジアに行ったんだろうって・・・・・・」

 切れ長の目で射抜くような視線を当てられ、智希は途端に居心地が悪くなり口ごもる。

「卒業旅行で行ったカンボジアが、とにかく衝撃的だったの」

「あの時もそう言ってたよね」


──


 何気なく放ったその言葉に、智希は自らハッとする。小夏も一瞬息を飲み、智希を見つめた気がするのは・・・・・・思い上がりだろうか。


「そうだね、話したかもね」

 一瞬二人の間を流れた変な空気を取り払うように、小夏は明るい声を出して話を続けた。

「アンコール・ワットの周りは急激に観光地化されて、慌てて発展したから、そこから少しでも離れると道の向こうは地雷が埋まっていて。手足のない人が沢山いたのよ」


聞いた。

 今から七年前、2002年に大学の卒業旅行でアンコール・ワット行った小夏は、タイから陸路でカンボジアに入国してその光景にとにかく驚いたのだという。

 

 タイの国境までは綺麗に舗装された道路を、日本でも走っているような大型観光バスで向かったのに、国境を越えると景色は一変した。土ぼこりの舞うでこぼこ道。地雷で飛んでしまった手足のない人たちがそこかしこに溢れ、一方で子どもたちは外国人に物乞いをするために群がってくる。そしてあちこちから聞こえてくる「PICPOCKETスリだ!」という鋭い声。

 最初は恐怖と驚愕にただ戸惑ったという小夏だったが、アンコール・ワットのあるシェムリアップに向かうバスの中の運転手や、途中で寄った店の店員、シェムリアップで仲良くなった現地の人の笑顔に大きく心を揺さぶられたのだという。

 大変なはずなのに、彼らは笑顔がとても明るくて素敵で、みんな親切だ、と。そして、彼らが安全で地雷にも飢えにも恐れない生活が送れるよう、自分に何かできることはないだろうか──はそう言っていた。


 そしてその直後、就職先も大手の建設会社に決めていたのに、小夏は突如カンボジアに向かったのだ。智希になにも告げずに。


「あてがあって行った訳じゃないから、まずはシェムリアップで外国人向けのツアー会社に入って現状を把握しようとしたのよね」

「就職先を蹴って行ったのに、あてがないってなかなか大胆だよね」

 智希の言葉に、小夏は一瞬鋭い視線を向ける。気のせいではない、と思う。

「だって、行かないことには始まらなかったから。だけど何が大事ってそこで分かったのよ。教育と就労の場だって」


 一瞬見せた鋭い視線を引っ込め、小夏は続ける。

 小夏が卒業旅行でカンボジアに行ったのは、ポル・ポト政権の残虐政治が色濃く残っている頃だった。地雷の撤去やライフラインの整備が日本でも叫ばれたが、その道のプロではない自分は教育と就労に目を向けたのだという。

 穏やかで素直な子どもたち。荒れ果てた地で教育を受ける機会もなく、負のスパイラルに陥り何代もこの状態が続くことのないよう、小夏は自分の勤める旅行会社で、ガイドになるためのプログラムを設けた。彼らに英語と日本語、そしてガイドの知識を──自分もアンコール遺跡群に頻繁に足を運びながら勉強し──彼らに教えたという話を続けた。

 目からは鋭い光は消え、熱を帯び潤んだような目で語る小夏は・・・・・・高校時代と同じだった。同窓会で再会したとも同じだった。


 一度決めたら、その目標にまっしぐらに向かっていく小夏。高校時代、進路を決めるときも智希は指定校推薦で入れるそこそこの大学を選んだ。だけど小夏は無理だと言われた難関の工業大学に絶対入るのだと、一浪の末に見事に入学したのだった。

 だからてっきり建築士を目指してると思ったのに──

 突然、小夏はカンボジアに行った。


「どうして日本に戻ってきたんだ?」

 すっかりぬるくなったコーヒーをすすり、智希は尋ねる。それに合わせるかのように小夏も氷の溶けたアイスティに手を伸ばした。その左手に、ふと智希の目が留まる。

「カンボジアも大分発展してきて、首都のプノンペンなんてデパートもできたしね。だから一旦日本に戻ろうかなって。私、一人っ子だからさ」

 後半は智希の耳に届かなかった。他のことを考えていたからだ。一瞬戸惑ったが、確認せずにはいられなかった。

「小夏、結婚したの?」

「え?」

 急に話を変えてきた智希に、小夏は動きを止めて眉を少しひそめて訝しげな表情をした。

「だって、指輪・・・・・・」

 智希がそっと指を指した先には、小夏の左手薬指には、光るシンプルなゴールドの指輪があった。


「──ああ」

 小夏は理解したというより、一瞬呆れたようなつまらないものを見たような苦笑いを浮かべる。

「向こうは結婚指輪っていう習慣もないの。とはいえ一種の魔除けみたいなものかな。深い意味はないよ」

 なんだか色々なものを見透かされたようで、智希は急に居心地が悪くなる。場の空気を持て余し、本当はぬるくなって飲む気にもなれなかったコーヒーのカップに口をつけた。


「結婚っていったら、智希の方でしょ」

 小夏は肘をつき、上目遣いで智希を見つめる。華奢な小麦色の手首で、細い金色のブレスレットが揺れた。

「里美ちゃん、元気にしてる? 智希もいいパパしてるらしいじゃん」

「なんでそれを・・・・・・」

 カップを口に近づけたまま、智希は大きく目を見開いた。

「帰国してバト部だった田中に聞いたよ。そりゃ結婚するよね、高校からずっと一緒だったもんね」

「ああ」

 そうだよなと智希は思い直す。小夏が先に高校の友達に会うことも、その中で智希達の話題が上ることも、ごく当たり前だ。何故自分を中心にしてしまうと、そんなことも思い当たらないのだろう。


「最後に会ったときも結婚するって、話してたもんね」


 どうしてそんなこと、さらりと言うのか。

 智希は下唇を噛み、目に力を込めてぐっと小夏を見つめた。

「ああ、そうだよ」


 さっきの小夏の鋭い目線はなんだったのか。小夏だって、引っ掛かるものがあるんじゃないのか。智希は口の端をきゅっと結び、もう一度小夏を見た。高い窓から射してくる夏の日差しに、明るく染めたショートカットの髪が光っていた。

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