第3話 虎御前山 蛍

 仙千代の姿に魅入られ、存在を愛しく思い、

立ち去る機会を逸した信忠は、息をひそめていた。


 やがて仙千代が虫の鳴き声を真似たり、

月に向かって叫んだりした。


 飛蝗ばった以外は似ていなかった。

月に吠えた台詞もちょっと頓珍漢だった。

 だが、そんな仙千代が好きだった。

思わず小さく笑ってしまい、その時、気付かれてしまった。


 ハッと驚いて振り返り、

こちらを見上げた顔の半分に月の光が当たり、

一瞬の表情は驚きと共に明らかに喜びを表していた。

 次に直ぐ、唇を噛み、眉根を寄せ、俯いた。


 畏まり、作法通りに振る舞う仙千代に、

胸が締め付けられた。

 ここには二人しか居ない、月が見ているだけだ、

二人きりの時にそんな真似をすることはない、

そう言ってやりたかった。


 しかし、言えなかった。

二人の間の溝を埋めてしまえば、仙千代の未来も、

もしかすれば、生命も閉ざされてしまう。


 信忠が発せられる精いっぱいが、

仙千代の、


 「月もこちらを見ておりますね」


 に対する、


 「飛蝗の鳴声が上手かった。月も面白く聴いたであろう」


 というひとことだけだった。


 ようやく、偶然の僥倖とはいえ、二人きりになったのに、

触れるどころか、親しく話すことすら叶わず、

泣きたいような気分だった。


 月明かりの中、こちらを見上げている仙千代は、

白眼と黒目がくっきり分かれ、

木の実のような形をした眼の縁を睫毛が細やかに囲み、

温かな眼差しの瞳は澄み切って、信忠の言葉に口元が笑んでいた。


 今ここで、枝から飛び降り、

名を呼んで、抱き、百万回でも謝りたかった。

そして、赦されたなら、夜を通して溶け合って、

どれほど強く深く慕っているかを伝えたかった。


 信忠は幻想を振り払い、立ち去ろうとして、

地に降りた。


 その時、渓流に光が灯った。

光りの群れは点滅し、ふわりふわりと浮かび、

群舞の形容を変えながら、揺らめている。


 仙千代が、


 「あっ」


 と、控えめな声をあげた。

そして、信忠を振り向くと、


 「平家蛍ですよ。あれは平家の蛍」


 と嬉しそうに教えた。


 最近の信長は、源平交代説を採っていて、

胴服も旗印も平家の家紋、揚羽蝶を好んで用いていた。


 信忠は、仙千代の笑顔に視界が曇った。

あれほど嫌な目に遭わせたのに、

平家蛍を見付け、信忠に純な笑みを向ける。


 耐えられなくなった信忠は涙を堪える為、

息を大きくつくと、


 「もう、じきに秋じゃ。蛍も見納めだな」


 と淡白を装って言い、城へ戻る様子を見せた。


 輝いていた仙千代の笑顔は、

一瞬にして慎ましやかな微笑に変わり、

その微笑が悲しみを湛えているのを信忠は認めた。


 「若殿!若殿!」


 三郎達の声がしていた。

道を辿って、こちらへ近付いてくる。


 「ああ、若殿!探しました!」


 三郎はじめ、四、五名の小姓達だった。


 「お月見ならば、誘ってくださいませ!

お一人でお出掛けになられては困ります。

いつも申しておりますのに」


 「若殿、皆、心配したのですよ!」


 「あいわかった!もう戻る」


 ある意味、良いところにやって来てくれたと、

言えないわけでもなかった。

 二人きりは、仙千代への想いが溢れ、耐えられず、

気がおかしくなりそうだった。


 清三郎が、


 「仙様!若殿とお月見ですか?」


 と仙千代を「仙様」と何故か呼び、笑い掛ける。

仙千代は困惑気味に、


 「偶然お会いしたまでじゃ」


 と清三郎に応じた。


 三郎も仙千代に声を掛ける。


 「今、瓜を切ったんじゃ。

仙千代も一緒に皆で食べよう」


 三郎は仙千代の肩を組んだ。


 「今夜の月に負けない、美味しそうな黄色をしておる。

食べよう、食べよう、皆で食べよう!」


 仙千代が微苦笑を浮かべ、


 「そうだな。馳走になる」


 と、三郎の肩に腕を回した。


 三郎の根の無い陽気さは、やはり捨て難かった。

清三郎も仙千代を慕っているようだった。

 信忠は小姓達の気立ての良さを嬉しく思うと同時、

仙千代と肩を組み、何やら冗談を言い合って歩く三郎を、

羨ましく思った。



 



 




 

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