第2話 虎御前山 満月
夕刻前、信忠は、
織田軍が大勝利を収めた話を城の広間で父から聞いた。
常日頃、鍛錬に余念がない父も、疲労の色が濃く、
いくらか痩せたようにも思われた。
息子に対し、大袈裟な手柄話をしない人だった。
信長という人は現実主義で、物語を美しく飾ることをしない。
淡々と策戦、経過、結果を述べる。
感情が平らかな時の父は話が整理され、分かりやすかった。
逆に言えば、激高すると、
主語、述語、敬語、謙譲語が滅茶滅茶になり、
ただ怒りの塊となり、誰にも手がつけられなくなる。
先ほど、今回の朝倉義景討伐の実相を語った父は、
機嫌の良さを滲ませながらも淡々としていた。
足利義昭の画策による織田包囲網によって苛立ちを募らせ、
昨今は怒りの沸点が低い父だが、
喜怒哀楽、感情の濃さ淡さが、
激しく
子である信忠から見てさえ、
純な煌めきを湛え、大きな欠点であり、魅力でもあった。
戦況報告が済んだあたりで、
ちょうど湯殿の準備が整い、仙千代が呼びに来た。
父は、相好を崩し、仙千代に笑顔を向けると、
「今夜はたっぷり休むとしよう。流石に疲れた」
と言い残し、部屋を出て行った。
今、この時刻に仙千代がここで月を眺めているということは、
今夜は褥に召し寄せられなかったのだと思った。
いつも誰かが傍に居て、護られ、
一人になることが難しい境遇の信忠は、
自分が姿を消せば近侍達が困り、
探す羽目になることを知っていながら、
自分が本来居るべき場所から時に逃亡してしまうことがある。
三郎も清三郎も悪くはない。可愛い小姓達だった。
しかし、一人になりたく思うのは、
真の自分を解放する為だった。
織田家の嫡男として生まれ育ったからには、
その生涯を貫徹せねばならない宿命なのだと知っている。
同時に、生き身の一人の男でもある。
色の乏しい日々を送っていた信忠の世界に彩を与えてくれたのは、
仙千代だった。
松姫も愛しいが、ある部分、幻影であることは否めない。
では、清三郎はどうなのか。
新たに召し上げた小姓はどうなのか。
心の奥に仙千代が居て、雛型が清三郎達だった。
雛型を抱いても、最後の最後は満たされなかった。
快楽はあり、楽しいのだが、何処かに虚しさがあった。
仙千代が居てくれたならと思わない日はなく、
例えば清三郎に仙千代と似た面影を見ると、
それこそを清三郎に求めている自分というものに気付く。
確かに歩いているはずなのに、足の感覚がないような、
そんな思いを抱きながら、清三郎や三郎と夜を過ごす。
東に上がる月の眺望が良いこの場所は信忠の気に入りだった。
今まで何度か、一人で来ていた。
仙千代の姿が池の端に見えた時、
直ぐ立ち去ろうと思ったが、もし気付かないのなら、
このまま仙千代と二人きり、同じ景色を見ていたかった。
月影の下で、虫の
何を考え、何を思っているのか。
直ぐ真下に居るのに、声を掛けることが憚られた。
昨年の夏、強く罵倒し、突き放した仙千代に今、
たった一声掛けるだけで、
今までの辛抱が霧散してしまいそうになる。
いや、それで良いではないか。
仙千代に傷つけたことを心から詫び、赦しを請うて、
もし赦されたなら、
このように二人だけの時をたとえ月に一度でも作り、
逢瀬としたなら、
その日を生きる喜びとして暮らしていかれる。
仙千代の雛型ではなく、仙千代を欲しい、
仙千代でなければ虚しさは埋められない、
信忠の生身の感覚はそう言っていて、
仙千代だけを求め、一年を経ても、
思いは強くなりこそすれ、弱まることはなかった。
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