第13話 目を覚ませ!

 青海藩筆頭家老、橘厳慎はと評判の男だ。農政改革を進めて傾きかけた藩財政を立て直した手腕を買われ、三十代で郡奉行から家老に抜擢された逸材であった。先代藩主に可愛がられた橘は、五十歳で五名いる家老職の筆頭に進んだが、家禄わずか五百石の橘家からは異例の出世と世間を驚かせた。


 橘は家老としても辣腕を振るった。農政改革により大量に生産することができた生糸を外国に輸出し、藩武装の洋式化を勧めたのである。外国との密貿易によって藩内の商人は潤い、藩財政は豊かになった。反面、直接の利益を受けない藩士や農民には不満が鬱積していき、その一部が反橘派――すなわち外国人を排斥し、以前の青海藩に立ち戻ろうという攘夷派を形成していた。藩主の伯父・奇妙公は、そんな攘夷派の思いを代弁し、藩政に干渉するようになってきていた。


 橘家老暗殺――。

 鎖国を撤回した幕府の政策に乗り、藩の開国政策を勧めようとする橘への攘夷派の巻き返しだ。開国派の首魁である橘自身を殺害して藩主に藩政の転回を迫るという非常手段である。篠崎祐馬は、この一大計画の一端を担わされていることを自覚せざるを得なかった。


 ――成るか。


 しかし、このことを成さねば篠崎の命はない。

 賭場の借金の肩代わりをしてくれた土佐雷蔵は攘夷派。兄の篠崎多聞は、橘家老直属で外国奉行という新しい役目を任されたばかり。橘派の新鋭である。進退窮まったというべきだろう。篠崎は、自分の道は自身で切り開くしかないと思い定めるしかなかった。


 ――この刀で。


 土佐雷蔵が、自身とわずかな同志とで橘を襲撃してから約一カ月。藩主が臨席する秋の観月会から公務に復帰するとの情報を土佐たちは得ていた。「痩せた男」から手渡された指令書には、当日の橘の行動予定が逐一記載されており、ち密な計画だった。この情報が正しければ、橘の命を取ることは赤子の手をひねるよりも易しいことだろう。篠崎は、この計画を練り上げた「痩せた男」の手腕に舌を巻く思いだった。


 決行の日。あの徳應寺の広大な敷地の一角で、藩主をはじめ藩の重臣たちが列席しての観月会が開催されいるちょうどその時刻。篠崎は土佐雷蔵らを案内して指定された城下の屋敷へ向かっていた。上方からやってきた土佐たちは城下に土地勘がない。夜、青海城下を迷いなく駆けてゆくのに、篠崎の案内は不可欠だった。


 暗殺を決行する部隊はさして大人数ではなかった。ぜんぶで五人。土佐雷蔵とその息のかかった浪人が二人。そして、篠崎と――あと一人は加耶かやだった。屋敷の賭場で壺振りをしていたあの女である。目だけを出した全身黒ずくめの女は、ほかのだれよりも足音を忍ばせて飛ぶように走った。


 口を利くものはだれもいなかった。指令書で指示された屋敷は、何年も無人のままとなっている屋敷で、中は暗く塀は半ば崩れかけていた。土佐雷蔵の低い声が囁いた。


「ここからの指示はおれが出す。しばらくは動くな、月の光に影が差す」

「いいのか」

「雲が多い。見ろ、まもなく月を雲が覆う。おれたちには好都合だ」

「おれはなにをすればいい?」


 篠崎が尋ねると、土佐は


「おれが合図したら、一番に駆けていけ。できるなら橘に刀をつけても構わん。裏切ると見うたら、うしろから一太刀だ」


わかっていると思うがなと付け加えて、鼻で笑った。


 しばらくは、そのまま塀のそばにいて外の様子を窺い続けた。月明かりに道が白く輝いている。城下へ向かうのにこの道は遠回りだが、指令書にはここを橘が通ると記載されていた。ひと月前の襲撃に懲りた橘がわざわざ遠回りして、この道を選ぶというのだ。果たして、ほんとうに――?


 一刻ほどたっただろうか、中天に差し掛かろうとする月が厚い雲に覆われようとするその時だった。


「きた」


 提灯をもった小者とそれに駕籠と数名の護衛が続く列が見えた。たしかに来た。提灯に描かれているのは、たしかに橘家の紋「剣片喰」だ。提灯はゆつくりと左右に揺れながらだんだんと近づいてくる。


 どうする?

 十間……九間……八間……距離が詰まる。

 やるのか?

 七間……六間……五間。

 やれるのか?

 四間……。


「いまだ!」


 五人の襲撃者は刀の鯉口を切り、一斉に駆け出した。篠崎は、加耶と土佐を抜き去りいちばんに駕籠へ向かった。


 ――やるしかない。殺されるのは嫌だ。生き残るのはおれだ!


 篠崎たち襲撃者を認めた小者と駕籠かきは逃げ出し、護衛たちはたじろいだ。そこへ土佐雷蔵とその同志たちが襲い掛かる。そのあいだを縫って、篠崎は地面に置かれた駕籠へ駆け寄り刀を水平に構えると、まっすぐに駕籠引き戸へ突きたてた。駕籠ごと橘家老を刺し貫く。


「!」


 硬い手ごたえに刀が弾かれたかと思うと、引き戸が開け放たれ、現れたの人物が篠崎を一喝した。


「やめろ、篠崎! 刀をおけ!」


 折しも、雲を割って現れた中秋の月影に照らし出された男の姿は、橘家老とは似ても似つかぬ壮年の剣士だった。すでに腰を割り、いまにも刀を抜ける姿勢である。


「まさか……板野さん!?」

「目を覚ませ! 篠崎!」


 板野喜十郎が抜き放った刀を高々と掲げると、月光を浴びた刀身が冷たく光った。月に照らされて城下へと続く道が白く光り、篠崎祐馬と襲撃者たちの姿をありありと映し出した。

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