第8話 大坂からきた男
それから10日あまり、絵都は気をつけて道場に通ってくる篠崎祐馬の様子を見てみたが、特に変わった様子は見られなかった。相変わらず、
篠崎家は家老も勤めるの上士の家柄で、篠崎はその家門を誇るあまり、そうでない者を軽んじる傾向のある若者だった。そしてこの道場でいちばんに軽んじられているのはだれあろう板野喜十郎なのである。
「たまには痛い目をみさせてあげれば良いのに」
そう絵都がけしかけても、喜十郎は意に介さない。さんざん道場で打ち据えられたあとで、
「じっさい篠崎は強くなってます。いまに
と呑気なものである。絵都には喜十郎の人の良さが歯がゆく、そう見透かされていることが悔しい。
「それで、変わった様子はありましたか」
「ありません。いままでどおりの篠崎です」
「そうですか……」
あの日、寺から出てくる篠崎を見かけたのは、たまたまだったのだろうか。賭場とはなんの関わりもないのだろうか。
「ただ……
「え」
「大村が、篠崎のことを気にしていて。近ごろは、一緒にいることがなくなったそうです」
大村圭介は、
「なにがあったのか、聞き出そうとしたんですけど、それは話してくれなくて――」
とにかく大村を避けるようになったのだと、そして、大村圭介といる時間が減った代わりに
「時平重吾というのは、どんな人なのですか」
「そうですね……入門してきた当初、幾度が稽古をしました」
青海藩士でありながら、上方の大坂生まれの大坂そだち。大阪蔵屋敷の勘定方だった父の死に伴って青海に帰ってきた男だという。年のころは三十過ぎ。喜十郎によると、立ち居振る舞いなど万事に垢抜けて、洒落た男らしい。反面、その剣は剛直で武骨。
「強いですね。ぜんぜん底を見せません」
喜十郎が「強い」というのだから相当だ。時平重吾はかなり遣える男とみて間違いない。
「あれから時平とは?」
「いいえ、10日になりますが、一度も道場に顔を見せていません」
「そうですか」
親友に対する態度を急に変えた
「喜十郎どの」
「はい」
「もっと時平重吾のこと、調べてください。いやな予感がします――」
「……わかりました」
☆☆☆
――まずいことになってきた。
篠崎祐馬は、その快活で愛想のよい仮面の下で
最初は軽い気持ちではじめたことだった。仲良くしている屋敷の
「おれも連れていけよ」
「勘弁してくださいよ、祐馬さん。そんなこと殿さまに知れたらあたしはクビです」
その中間は尻込みして断ったが、そんなことで引き下がる篠崎ではない。かえって賭場に通っていることを当主の兄に言いつけるぞと脅しつけて、その賭場に連れていってもらったのだ。
はじめての博打には勝った。気分が良かった。
いい憂さ晴らしになったと、つぎは一人で出かけたのだが負けた。今度は負けを取り戻そうと出かけて、また負けた。
育ちのいい篠崎は、そこでやっと自分が胴元からカモにされていたことに気づいた。まだまだ向こうっ気の強い若者のことである。怒りにまかせて壺振りに詰め寄ろうとしたところを止めた武士がいた。
「博打と知ってて、そんな野暮はなしだぜ」
そして、金がないのなら賭場になんぞ足を踏み入れるものじゃないと、篠崎に代わって負けた掛け金を支払ってくれた上方なまりのある武士こそ、時平重吾だった。そのあと、飯屋で飲んで意気投合した時平は、篠崎が斎道場に通っていると聞くと、
「ちょうどいい。なまった腕を鍛え直したいと思っていたところだ、こんど道場に案内してれないか」
と言うのだ。賭場でのことを恩義に感じていた篠崎は、その申し出を喜んで引き受けた。
後日、道場に現れた時平重吾は、目の覚めるような豪剣を操る剣士だった。
それ以来、昼間は道場で剣をまじえ、夜は飲み屋で盃を交わし、時には賭場にも繰り出すというふたりの付き合いがはじまった。大坂暮らしが長く、万事に垢抜けしていて剣も強い時平を、若い篠崎が慕うようになるまで時間はかからなかった。
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