第6話 阿片と陰謀

 その部屋に近づくにしたがって、つんと鼻をつく匂いが強くなってきた。これが、ここの主が屋敷にいるときのだった。匂いの元は阿片アヘンである。


「失礼します」


 暗い廊下の突き当り、襖をからりと開けると、阿片の匂いがきつくなって煙が眼に染みた。なかでは脇息にだらしなく身体をもたれかけさせたひとりの老人がいた。紫煙を立ちぼらせる長煙管ながきせるを力なくもった細い手、藤色の長襦袢ながじゅばんの胸元に浮いて見える肋骨、半開きの口元は無精ひげで覆われ、目の色はさながら死んだ魚のようである。この屋敷の主、宝川茂実たからがわもちざね――奇妙公であった。身の回りの世話をする小女がひとりそばに控えている。


「板野新二郎、まかり越しましてございます」

「おお、板野……まっておったぞ」


 白いろうでできたような顔に喜色を浮かべて奇妙公は言った。長煙管を板野へ向かって伸ばし、近くへ寄れと差し招いた。板野は奇妙公のそばに侍っている女を見、それがうなずくのを確認してから恐懼きょうくの態をよそおって数尺にじり寄った。


 ――今日はまだ、頭に毒は回っていないのか。


「板野よ――土佐がしくじりおった! 橘のやつめを討ち漏らしたのよ!」

「御前……」

「図体ばかり大きいだけの能無しが……失敗しおった! 憂国の志士だとか、神道無念流だとかの触れ込みは真っ赤な嘘だったのじゃ! わざわざ京から呼び寄せ――」

「御前!」


 板野の強い口調に呑まれたのか、口角泡を飛ばしてまくしたてていた病んだ老人は、びくりと痙攣して口をつぐんだ。


「畏れながら――御前には橘家老を襲撃せよとお命じになりましたか?」


 眼光鋭く奇妙公を見据えられて、気の毒な老人はその気迫に震え上がった。


「……ち、ちがう。わしは……そのようなこと。土佐が断りなく……」

「左様でございましょう。――安心致しました」


 嘘だ。

 阿片に毒されたとはいえ奇妙公の目利きは正しい。土佐雷蔵とさらいぞうは、多少剣がつかえるといった程度の能無しだ。自ら家老襲撃を計画する意思も能力もない。襲撃は奇妙公の指示だ。


 しかし計画は失敗し、結果的に状況は板野の思惑どおりに進みはじめた。失敗したことで奇妙公を操りやすくなった面が確かにある。この機会を逃すべきではなかった。


「ただ、土佐の暴発は失敗したとはいえ。正義に裏打ちされた行動でございました。彼を責めるべきではありません」


 心にもないことを衷心ちゅうしんから発したかのように話す芸当を身につけない限り、陰謀というものは露見する。板野はその芸当を完璧に実行できる男だった。


「そ、そうか」

「攘夷を実行するための正義の行動であったとはいえ、土佐は時と人を得ることを怠ったように思われます」

「時と、人か……」


 奇妙公は自身が責められていないと分かると平静を取り戻し、板野の言葉に釣り込まれはじめた。


「天の時は、人の手でどうこうできるものではありません――が、人を得ることは叶いましょう。橘家老はかつての剣名高い男。土佐ひとりでは手に余ります。さらに――」

「さらに?」

「今後は橘家老も用心をしてくるはずでございます。藩内の情勢に暗い土佐や私だけでは、その行動を掴むのが難しと思われます」

「どうすれば良いのだ」

「橘家老の周辺に近い藩士を、われわれの陣営に引き込むのです。そして、われわれの間諜に仕立て上げる。可能ならば襲撃の手引きを任せられるような剣の達者が適当でございましょう」

「それは確かにそのとおりだが……、橘の周囲に? そのような者がおるのだろうか」

「私にひとり、心当たりの者がございます」


 板野はもう数尺、畳を奇妙公の方へいざり寄って、二言、三言耳打ちした。何度もうなずく奇妙公の目に、生きる者の輝きが戻ってきはじめた。陰謀はそれを望む者の間でのみ、美しい話として輝くのである。阿片の香りこもる紫煙に閉ざされた部屋での密談は、それから数刻にも及んだ。

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