第106話 温泉

 丈太郎は着替えを取りに一度船に戻った。


「大した服は持って来てないが、夕食にドレスコードなんて無いだろうな?」


「ネクタイしてないとダメとかなヤツ?大丈夫。うちの客間は和室だから。」

「先生。ゲストルームを見てもいい?」


「向かいの扉だ。」


 丈太郎は麻のジャケットとパンツを選んだが、大浴場まで入れてゆくカバンが無いので先に着替えてしまった。

 ゲストルームを覗くと夏がベッドに転がっている。


「どうだ?気に入ったか?」


「なんだか昔話に出てくるみたいなお部屋ですね。ちょっと揺れるのが気持ちいい。」


「今はスタビライザーを切ってるからな。昔話はオーバーだが、俺が生まれる前に作られた船だから君のお婆さんが若い頃の流行りだろう。」


「今晩泊めてもらってお婆ちゃんに自慢しようかなぁ。」



 大浴場はホスピスと茅野邸を繋ぐ渡り廊下から入ってすぐのところにあった。


「病院はお姉ちゃんのために作ったらしいけど、父さまはその次にこれが作りたかったみたい。」


 脱衣所で夏が説明してくれた。

 確かに2,000mも温泉を掘るのは大変だろうが病院の施設なら減価償却できる。

 これもホスピスの利点で、一般の病院と違ってかなり奇抜な施設でも認められるのだ。

 バリアフリーの扉を開けて浴室に入ると、奥は全面ガラス張りで川面の様子が見える。

 ヒノキ風呂は6畳ほどもあり、十分立派だが、窓際に1段下がってもう一つ細い浴槽があり、ヒノキ風呂から溢れたお湯はそこに落ちてゆく。


「窓は外から丸見えか?」


 裸で後ろを追いてくる夏に訊ねる。


「大丈夫。熱線反射ガラス?とかいうので、外から見たら鏡なんだって。夜に電気を点けると見えちゃうから液晶が挟んであって、スイッチを入れると透けなくなるの。」


「じゃあ星見風呂はできないな。」


「それも大丈夫。窓のところにもスイッチがあるからお湯に浸かってから電気を消したら自動で窓も透明になります。」


 丈太郎は木桶で掛け湯をして泉質を確かめる。


「結構な濁り湯で・・・アルカリ泉か?」


「よく知らないけど、ヌルヌルしてお肌にいいんだって。最初は呆れてた母さまもここのお湯に浸かって気に入ったみたい。お姉ちゃんも入れてあげたいんだけどなぁ。」


「ああ、それはやめておいてくれ。体表にもナノマシンは居るから電源の無いところで水に浸かるのはマズい。」


 丈太郎は洗い場で体を洗おうとするが、夏にタオルを取り上げられた。


「掛け流しだからそのまま浸かってもいいですよ。背中だけ洗ってあげます。」


「そうか。贅沢な話だな。」


 夏がボディーシャンプーで丈太郎の背中を洗う。


「おじいちゃんたちの背中の倍ぐらいありますね。」


「患者さんの背中も流すのか、喜んでくれるだろう?」


「冥土の土産とか、ばあさんに叱られるとか言ってますけど、何回も流されてたらお土産が持ち切れなくなるって笑ってます。」


「いいホスピスだな。俺もお世話になりたいもんだ。」


「先生が入院する頃には、私はおばさんになってますよ?」


「そうか。それは残念だ。」


「先生。そこは『それでもいい』って言うところでしょう?」


「俺がやっているのは若い子の美しさを残す仕事だからなぁ。」


「よく考えると生きている女の敵ですね。はい、サービスは終わりです。」



 丈太郎がヒノキ風呂に浸かると、一息吐く間もなく夏が手を取って窓際の浴槽に引っ張ってゆく。


「明るいうちに景色を見てください。」


 一段下の浴槽に浸かると、目線が川面とほぼ同じになった。


「川に浸かっているみたいだな。」


「でしょう?そしてこっち。」


 細い浴槽の端には掛け流しのお湯が排出されるポケットがあった。

 その側面は窓からひと続きのガラスになっていて水中が見える。


「今はあんまりお魚がいないけど、寒い時期はお魚がたくさん寄ってくるんですよ。」


 ガラスの向こうにはフナとモロコらしい魚影がキラキラと光っている。


「ああ、暖かい排水に寄ってくるんだな。ポンプで少し上流に流しているのか?」


「わからないけど真冬でも元気に泳いでます。水鳥も寄って来ますよ。」


 丈太郎は夏と並んで浴槽の縁にもたれて上から落ちてくる掛け流しの打たせ湯と暮れてゆく景色を楽しんだ。




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