二〇一号室の先輩 (2)
翌朝、佐藤からラインがきたときはまだ寝床に入っていた。ヒイロが見つかったという。
佐藤が目を覚ましたのは六時ころ。ベランダに、ヒイロはうずくまっていたそうだ。あのおまじないのおかげだとも書いてあった。
渡された一枚を書き写して、玄関とベランダにはっておいた。ヒイロは、少し汚れてはいたがどこにも怪我はなさそう、餌を上げるともりもり食べた、その写真が一緒に送られてきた。
〈ありがとうございます〉と書いてあったが、その言葉を受けるようなことはしていない。昨夜の分の報酬はしっかり納めている。
かっこつけてそう書いて返信しようと思ったが、やめた。〈それはよかった。もうしめ忘れないように。〉とだけ返した。
すぐに携帯が鳴る。ラインを見て、にやっと笑う。〈はい、わかりました〉という言葉に顔文字が続き、飼い主とヒイロのツーショット写真が添付されていた。
飼い主の笑顔は、それがまるで好きな女性と一緒にいるかのように晴れやかだった。
「ヒイロ発見」の報から二日後の火曜日、夜九時過ぎ、茶色いアパートの二〇一号室のそのコタツに、眼鏡と少女が九十度に座っている。
少女が数学の問題に挑むその様子を、眼鏡はじっと見ていた。外は風が強い。東側に面した窓がカタカタ鳴りっぱなし。
「よし、そろそろ終わりにするか」
「はーい」
少女はノートと問題集をバッグにしまう。ショートヘアーの髪の毛は若干色が抜けている、ようにも見える。
「そうか、もう四月だ。春休みもあと一週間か。宿題はちゃんと終わるんだろうな。冬休みのようなことには」
「だいじょぶだいじょぶ。春休みは宿題ないから」
言いながら、少女がこたつの上のブロックチョコを口に放り込んだ。
「そうだったっけ? ならいいけど。冬休みのようなことはもうごめんだ」
「いつまでも昔のことにこだわんなって。そんなことじゃ、いつまでたっても彼女なんかできないぞ」
ぽんぽんと肩を叩かれた。少女が本棚から漫画を取って読み始めた。部屋主も藤沢周平を読んで、五分ほど過ぎたろうか。
「あたしゃ、あんたのこと信用してるからね」
「おまえは」
いったいどこでそんなセリフを覚えるんだか。漫画を見たまま、少女が「イッヒッヒッヒッ」と笑った。
「いまどき『ちびまるこちゃん』の真似する中学生とかいないだろ」
「え、だって好きでしょ。まるこ」
「確かに嫌いじゃないが。逆に中学生はみてるのか?」
「学校とかじゃやらないから、大丈夫だって。あんたの前だけだよ!」
少女は、ずっと漫画から顔をそらしていない。言葉の端々に、少女が「女性」であることを窺わせる。「が窺える」のではなく「を窺わせる」。
自分の半分ほどしか生きていない女の子にまったくいいように遊ばれて、部屋主は一つ溜息を吐いた。恐るべし。
まるでそれが合図だったように。
カンカンカンカン、と鉄の階段を上がってくる。リズムで誰かわかる。
少女も同じく。
漫画を棚に戻した。その直前には部屋のチャイムが鳴らされ、本棚に漫画を戻す手をまたぐように部屋主は入り口へと近づいていた。
ドアの鍵を開ける。少女が携帯を触っている。もう帰るつもりだろう。なぜならば。入り口を開ける。関口歳が立っている。
「ちゃっす。あ、なるみちゃんもいたんだ」
階段を上がってくる音が二人分、重なり合っていたから。トシの後ろには「こんばんは」佐藤雅人が笑顔で立っていた。
「こんばんは」
と挨拶を交わした三人の真ん中を割って、少女は出ていった。
「なるみちゃん、おやすみ」「おやすみ」
振り返りもせず「おやすみなさい」と返して、少女は階段をゆっくりと降りていった。
「雅人が改めてお礼が言いたいっていうからさ。入っていい?」
と言った背中、佐藤と先輩は、その背中が座るのを黙って見送った。
その週の金曜日、佐藤雅人から思いがけない電話がきた。大いに慌てていた。受けたほうも驚いた。が、その「まさか」は一種類ではない。
「まあ、落ち着いて」
「いや、ほんと最悪っすよ。ぶっちゃけ、死にたいっす」
いろいろ説明するのは苦手だった。面倒だ。が、今回はそうも言ってられまい。
佐藤がまさか本当に「死に」はしないだろうが、このままでは、例えソレが解決してもすっきりしないだろう。というか、本当の「解決」にはならないだろう。
時刻は十九時半過ぎ、仕事から帰ってきて一通り探した後、という感じだろうか。いきなりホークスも負けているが、仕方なし。
「今からいこう」
「マジっすか。でも、悪いっすよ」
「大丈夫。佐藤君に死なれたら困るし。なに、そんなに畏まることはない、手下を一人連れていく」
「手下、すか」
もう探してみたのか、という問いに「はい」と答えた声は力なく。
「すぐに出るから、ちょっと待っててくれ」
「わかりました」
意思の見えない返事だ。
ヒイロがまたしても逃げた。またしても、窓を閉め忘れた、「抜けてしまった」という。
佐藤が自分を見失っているのも当然だ、死にたいと本人が思うのもわからんでもない。
と言いたいところだが、果たして……。すぐに「手下」に電話をかける。電話もあまり得意ではないのだが。
――張り切っているな、なぜか。
そんな自分を不思議に見ていた。電話が漸くつながった。
「家か? 飲み会? もう飲み始めてるのか。駅の西口、あの居酒屋ビルか。仕方ない、今から迎えにいくから待っていろ。なに、じゃない、佐藤くんから連絡がいっただろ。車? どのみち運転できまい。代行? 代行で佐藤くんちまでいくのか?」
くどくどと、付き合ってはいられない。
「近くまでいったらまた連絡する、いいな」
後で会おう。往生際の悪い奴だ。最後まで「うん」とは言わなかったが、店内に踏み込んでも連れ出してやる。
――こっちは乗りかかった船だが、乗せたのはあいつだからな。
佐藤とヒイロのツーショット写真を思い浮かべた。
――彼女と別れて三ヶ月か。あるいは……。
着替えてからもう一つ、〈すまん、これから出かけるから今日はナシの方向で〉とラインして部屋を出た。
リュックを肩にかけ、階段を降りながら空を見上げる。頭上には既に星が輝いている。一週間前のことを思い出した。
実際的にはなんの助けにもならないかもしれない。見かけ以上に無意味だからこそ実行する価値がある。気休めとはそういうものだ。
車に乗り、大きく息を吐き出した。
――待ってろよ。
ヒイロが呼んでいるようだった。
「ヒイロ脱走」その意味を、わかっているのは「わたし」だけだ。空回りだろうとなんだろうと、いかなくてどうする。
ヒイロの「言葉」を佐藤に伝えられるのは「わたし」しかいないのだから。
車をゆっくりスタートさせる。ヘッドライトの光が照らす、路上を一匹の猫が、悠々と横切っていった。
明らかにヒイロではないその猫に軽く手を上げて、車はアパートの前の狭い道から片側一斜線の道路に出る、ところで一時停止、ライトの流れが途切れるのを見切って、漸く街へと降りていった。
佐藤雅人のアパートに着いたときには二十時半を回っていた。
「なにやってんだ、おのれは!」
二人を迎えた、色をなくした男と向かって、トシが吠えた。
「せっかくの合コンが、ナースたちとの二度目の飲み会をどうしてくれんだ! 合コンを途中で抜ける? 猫を探すために? 野郎のために……、あり得ない!!」
「安心しろ、どうせ無意味だ」
「そんなのわからんでしょうが! やってみなけりゃ!」
部屋自体が、心なしか暗く沈んでいる。「また」ということが部屋主に追い討ちをかけたのだろうが、それも一つの表象に過ぎない。猫タワーは、むしろ前よりは「不自然」には見えない。案外……。
「せいせいしてるかもしれんぞ、お前がいなくなって。彼女たちから電話かラインがきてるか?」
目を見開き、息を吸い込んだ童顔の男が、一瞬体を凍らせて、ポケットからスマホを取り出した。取り出して……。しぼんだ。
「いや、だって、そのための二回目だし。別にこれが答えってわけじゃないだろうし。そもそもなにも始まってないし。いや、始まるとか終わるとか、そういうことじゃなくて」
――ここまで感情を隠さない人間も稀有だな。
ある意味で自分に自信があるのだろう。
「わたしに電話をよこしてから探しには?」
「いってません」
佐藤はベッドによりかかって座っている。顔を上げて、窓の外、公園のほうをちらっと見て、また塞いだ。
窓には紙がはってあった。玄関にもあるかもしれない。
質問にはしっかり答えているし、その感情は、落ちているが死んではない。
「また近くにいるんじゃねぇのか。ちゃんと探せって。つうか、逃がすんじゃねぇよ」
先輩と後輩はまだ立ったまま。半狂乱状態の後輩に、目線を友人に合わせよう、などという気遣いはない。
それは、決して残酷な図ではない。ぐるっと部屋を見回す。
「はぁ、ほんと、バカすぎ。アホすぎだろ、俺」
佐藤が自分を呪った。
猫、猫タワー、猫の餌、萎れた佐藤雅人、カーテン、ベッドの頭の上に置いてあるぬいぐるみ、……。
猫がいると仮定したときに「それら」が「不自然」でないのではなく、「猫がいない」ことに「不自然」を感じないのか。この状況こそ、この部屋のあるべき姿、今の佐藤に相応しい……。。
――「死にたい」などと口では言っていたが……。
「三ヶ月」という言葉が頭を過ぎった。
にしても、こないだからこれほど短い期間というのは。もう一つの「まさか」。
「佐藤くん、最近、ごく最近彼女となにかなかったか」
「なに!」
トシのそれは驚きというよりも怒り。ここぞとばかり腰を低くして佐藤ににじり寄った。
「なにをした! なにかしたのか! このベッドの上で! ああ!」
「なんもしてないよ。つうか、来てないし、会ってもいない。電話が」
「電話! 電話がきたのか! したのか!」
「電話がきた。一昨日の夜」
「俺の出会いを邪魔しておきながら、お前はモトカノから電話もらってベッドでマスかいたってか!」
「いい加減にしろ」
後輩の襟首をつかんで引き離した。こいつの言葉は、佐藤の「想い」の核心を微妙にアマガミするようだ。
「まずはいったん外に出てみようか」
佐藤とトシを引き離し、あるいは引きずるようにして三人、外に出た。
金曜日の夜が金曜日の夜たるのは、翌日が土曜日だからではなく、合コンを途中で投げ出したり、男三人で牛丼を食べて猫を探したりするためである。
「こないだ脱走したときは、二日後にベランダにいたんだっけ。てことは、やっぱアパートの近くにいるんじゃね。雄だろ。昼間は一人ぼっちで、あとは雅人と二人きりじゃあ、外に出て女子と遊びたくなったって不思議じゃねぇって」
トシはアパートの前の植え込みを探っている。牛丼を奢られて、いくらか落ち着きを取り戻したのか。少し離れて公園の中を探している二人のところまで、トシの声ははっきり届いている。
「あながち、あいつの言ってることも間違いじゃないもしれない」
「確かに、部屋にずっといるっていうのは辛いかもですね。サカリがついたような猫の声はよく聞くし。あ、でも、ヒイロは去勢してるけど、そういう性欲はあるんすかね」
「さあ」
切り上げどきを計っていた。また無事に戻ってくるだろうという気はするが、探して見つかれば万々歳だし、また、探すことで気持ちの切り替えもしやすかろう。段落をつける意味で「ふー」と溜息を吐いて背筋を伸ばした。
「実は、昨日の夜、こっちからも電話したんです、彼女に」
タイミングを計っていたのは、一方だけではなかったようだ。
「あいつに、聞かれたくはない?」
アパートの間近を探索しながら、いつの間にかアパートの側面にまで回って姿が見えなくなっていた、あいつ。
「いねぇぞ、全然。ヒイロ、どこいった。どっかで隠れてやってんじゃねぇ。金曜の夜はだ、人間だろうが猫だろうが女の子と遊びたいもんなんだって、聞いてるか、雅人、お前もとっとと次の恋をさがせ」
仄(ほの)かに浮かぶ佐藤の影は、姿が見えない友だちを見つめていた。
「だから、やれねんだっつうの」
苦笑いをしているように見えたが、もしかしたら全然違う感情の表れであったかもしれない。三人は、佐藤の部屋に戻った。
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