朝日ハイツ201号室

カイセ マキ

二〇一号室の先輩 (1)

 金曜日、夜も九時半近く。茶色いアパートの二階二〇一号室、六畳の部屋の真ん中、四角いコタツを三人の男が囲んでいた。

「どうせ暇なんでしょ? だから、ちょっとお願いしますよ、先輩」

「土日はわたしも仕事だと、言うまでもないはずだが」

 話をする「後輩」に目もくれずパソコンを見つめる、眼鏡の部屋主。

 ――普段はタメ口のくせに。

 こんなときだけ「しますよ」などと言ってくる。

 六畳一間の部屋は、狭い。入り口を入ってすぐ、ダンボールやら骨の折れた傘やらが鬱陶しく置いてある。

 部屋の真ん中にコタツ、四辺の三辺に座る先輩と後輩ともう一人。先輩の後ろには万年床が敷かれ、左手にツンツン頭の後輩、後輩の背中に本棚。

「だって、いつも夕方くらいに終わるでしょ。その後でいいんだから」

「そもそも、お前は休みじゃないのか。友だちであり親友のお前が一緒に探してあげれば、それでいいだろうに」

 先輩は変わらずパソコンと向き合っている。後輩の様子を、視界の端に入れながら。

 後輩の左手、すなわち先輩と向き合うように一人、一人の背後にテレビ、消えている。

 一人の左手、先輩の右手は無人であるが、無人とは思えない圧迫感がある。本棚と、網ラック。

「俺はダメだよ。夕方から用事あるし、昼間はこいつが用事あるんで」

「こいつ」の顔を見る。ペコッと小さく頭を下げた。

 パソコンに視線を戻す。十六対一、我らがホークスは派手に負けている。後輩たちが部屋に入った直後から、九回の一イニングだけでなんと八失点! とんだ疫病神が転がり込んだものだ。

「そもそものそもそもとして、なぜにこの話をわたしのところに持ってくる? 見てみろ、彼を」

 見るからに、困っている。

 何かといえば、彼の飼っている部屋猫が、ちょっと目を離した隙に外に逃げてしまったのだという。

 それを探して欲しいと、後輩が先輩のもとに話を持ち込んできた。

 彼が困っているのは、猫がいないことばかりではあるまい。

 この状況に一番当惑しているのは他ならぬ彼だろう。後輩の顔を見たり、本棚やラック、部屋を見回し、「先輩」と呼ばれる人間の顔をちらちら見たり。落ち着かない様子。

 気が小さいのか。厚かましい友人の提案を断りきれなかったのだ。

 彼の肩に手を置いて、悲しそうな顔をする後輩。二人の困惑をまるで餌にしているかのように、仕種が力を増す。

「見てくださいよ、このがっかり感。助けられるのは先輩しかいないっすよ」

「お願いします、先輩!」

 開き直った。

 後輩の連れてきた彼が、とうとうまっすぐな眼差しを部屋主に向けた。まるで肩のそれが合図であったかのように。

 先輩、一つ鼻から息を吐き出し、

「ひとまず、話を聞こうか」

 これ以上、つまらない三文芝居を見せられてはかなわない。結局、こちらがいつも負けるはめになる、この後輩にかかるといつも。

 童顔の横面が憎らしい。ホークスがボロ負けしたのもこいつのせい。

 その口が動き、何か言っているようだ。

 さすが先輩、頼りになる、手伝ってくれるってさ、ほれ、話せ。

 後輩の連れが、話し始めた。


 翌日、後輩の友人がアパートに迎えにきたのは十九時を少し回ったころだった。昨夜話していた通り。

 彼の名は佐藤雅人(マサト)。因みに後輩は関口歳(トシ)という。

 二人とも井伊市市役所に勤める公務員である。佐藤の車に乗って、まずは「現場」に向かう。

「しっかし、トシもひどいっすよね。知ってますか、今合コン中ですよ。相手が看護師さんとか言ってたかな。先輩に押し付けて自分は合コンいくっていう」

 昨日と違い、佐藤の語り口にはいきなりの親しみが感じられる。

 昨日の今日だから?

 それとも二人きりという状況が?

 運転席と助手席という関係がそうさせるのか?

「あいつは合コン大好きだからな」

 合コンのためなら職も辞さないという人間だ。

 ――合コンのためというより、女子のためか。

「先輩にこんなこと頼んでおいて、自分は女の子と合コンすからね。ないっすよね」

 こんなこと……。

 ――天然なのか。

 改めて見ると、そんなに悪い「顔」ではない。

 喋り方、私服の感じから少し「ちゃらい」感じはしたが、さすがに公務員ではあるようだ。

 車はシルバーのアクア。車間距離が短めなのと信号待ちからスタートするとき、青になる前に停止線をゆっくり越えて動き出すことが気になるが。

「トシの高校のときの先輩なんすよね。剣道部の先輩でしたっけ」

「ああ」

「頼りになる優しい人知ってるからって言われて、先輩のとこ連れていかれたときはどうしようかと思ったけど、でも、ほんといい人でほっとしました」

 こういうことさらっと言えるか。やはり天然の気はありそうだ。

 車の中はきれいだった。後部座席も片付いている。助手席の前のボードの端にミッキーマウスのぬいぐるみが、こちらを向いて座っていた。

 井伊(いい)市と酒井(さかい)市とのほぼ市境にある佐藤のアパートまでは車で二十分ほど。一階の西から二番目。

 玄関を入ると猫のトイレが置いてあり、若干「臭い」がした。部屋の中は、やはりきれいに片付いていた。

 彼女と別れて、一人になって三ヶ月ほどだということだが、どこか女性の「匂い」はある。

 具体的な「いい匂い」とかではなく、「残像」とでも言おうか、「残り香」とでも言おうか。

 昨日、「未練がまだあるんだろう」と言ったトシの言葉に「全然ねぇって」と言った否認は、慌てたようでもあり、頑なにも見えた。

 なるほど、ここに猫がいないのは、どうにも物足りない。部屋の隅には猫が遊ぶためのタワーも置いてある。

「あの窓から逃げたのか」

「はい」

 佐藤の力ない頷き。

 部屋は八畳ほどあろうか。西側の壁際にベッド、南側にベランダに出る窓がある。

 毎朝、洗濯機を回して、仕事から帰ってきてすぐ前の日の洗濯物を取り込み、洗濯機の中の洗濯物を干す。

「いつも洗濯物干すときは窓を閉めるんす。なんか昨日は油断してたっつうか。いまだになんだか信じられない。ありえねぇっす」

 窓を開けると、生温い風とすぐ近くの道路を行き交うエンジン音が体を包んだ。

 ベランダに出てみる。

 すぐ前は植え込み。一階である部屋の前は公園の駐車場で、その向こうが公園になる。

 灯りのない公園のところどころ、木々の陰が薄暗い宵闇をさらに黒く塗り潰していた。

 市街地の夜空は、星もまばらだ。背後で声がした。

「ほんとに、後悔先に立たずですよ。ほんのちょっとの気の緩みというか。一瞬、ヒイロから気持ちが離れたっつうか、逃げ出すまで、逃げるかも、ていう考えがなかったすからね。つうか、ヒイロの存在も抜けてたような気がします」

 ヒイロ。それが飼っていた猫の名前だ。

 考えがなかった、思いもしなかった、存在自体を意識しなかった。「事故」が起きるときはえてしてそういうものだ。

「ほんとアホすぎる。自分が許せないっす。この闇の中で、ちゃんと元気にいるのかどうかって思うと、悲しくなってくる」

 闇に向かって、真っ黒な化け物に向かっての、己の不注意を悔い改める言葉。

 公園のどこかで鳥が鳴いた。男の言葉に答えたように。声は夜空を離れていった。

「公園を探しては、みたんだろうな」

「はい。名前を呼びながら探したけど、どうにもなんなくてトシに連絡したんす。昨日先輩のところから帰ってきた後もちょっと探してみたし、今朝も探しました。昼間は用事があって探せなくて」

 当然だろう。

「猫の種類は?」

 種類という言葉に違和感を感じつつ、他の言葉で言い換えることができなかった。

 佐藤はベランダには降りてこないで、部屋から体を半分出すようにしている。大して広くないベランダに男二人が並んで外を眺める、というのは避けたい状況ではある。

「アメショーです。アメリカンショートヘアーのオスです、」

 彼の言葉は大型トラックの騒音に一部かき消された。「去勢」してるのか。部屋の中に戻り、窓を閉めた。

「近くを探してみよう。家猫であればそれほど遠くにはいかんはず。オス猫は一キロくらい平気で動くらしいが、去勢してあれば、やはりそれほど遠くまでは動かないはずだ」

「一キロも……」

 佐藤のこの気持ちに寄りすぎないように、さらりと言葉を返した。

「取りあえず、また前の公園から当たってみようか。と、その前に、少し腹が減っているんだけど、近くに何かあるかな」

「牛丼でよかったら、すぐ近くにあります」

「牛丼、いいね」

「俺もお腹すきました。昨日からあんまり食欲なくて、昼はマックのチーズバーガー一個だけだったんで」

 佐藤の顔に、俄かに明るさが戻った。

 牛丼屋は歩いて五分ほどのところにあった。

 時刻は夜八時。表の通りは交通量の多い県道だが、裏は住宅やアパートが多く、いかにも住宅地然として静かだ。

 一応、物陰をのぞきながら歩いたが、ヒイロらしき猫はいなかった。前を横切る野良猫には何匹か遭遇した。

「近くにいるとは思うんだがな」

「すいません、なんか」

 何を今さら、と思わず言いそうになった。

 佐藤の声の調子が下がったのに反発するように少し胸を張った。佐藤が続ける。

「トシの前じゃ言えないけど、前の彼女との思い出なんすよね……」

 あいつの憎たらしい顔が浮かんだ。「未練」という言葉はヤツの大好物の一つだ。

「彼女とは三年くらい付き合ってたんすけど、俺、そんなに長く一人の女性と付き合ったの、その彼女が初めてだったんす」

 佐藤はしみじみと語り始めた。

 彼女と別れたのは今から三ヶ月ほど前、年が明けてすぐだった。

 別れよう、言ったのは彼女。他に好きな人ができたから、と。

「その前から怪しいな、とは思ってたんす」

 彼女は他県の人だった。

 付き合っていた彼氏と実家を離れ、最初に住んだのが井伊市から北にある渋河(しぶかわ)市。

 彼女も付き合っていた彼も、派遣社員として渋河の工場に勤め、その後仕事も変わり、井伊市の東、酒井市に住み始めた。

 佐藤が彼女と出会ったのは、合コン。

 佐藤の友だちの女友だちの知り合いとして、彼女がいた。

 その頃、彼氏から気持ちが離れかけていた彼女に、言葉は悪いが佐藤がうまくはまった。

 佐藤のアパートに彼女が遊びにきて、泊まるようになり、なるようになった。その時はまだ猫はいない。

「いやいや、さすがに奢りますよ」

「では、お言葉に甘えようかな。すまんね」

「全然いいっすよ。お会計、一緒でお願いします」

 報酬というほどでもない、と奢られた当人が考えるのもナンだが、これである程度のことをしなければならなくなったわけで。

 空を見上げると、ここでも双子座と獅子座は見えた。北斗七星も高い位置に見える。

「要は略奪した、ということか」

「形としてはそうかもですが、実際は略奪とかっていうほどのこともなくて」

 彼女が別れを言いに彼氏のアパートに戻ると言うので、そこに、佐藤も付き添った。

「中に入らないで部屋の前で待ってました。情けない話っすけど」

 出てきた彼女は、泣いていた。「大丈夫?」と声をかけるが、彼女は黙って頷いたきり。

 帰りの車中、会話をしたかどうかは憶えていないが、胸の中が情けなさで溢れていたことだけは強く残っていた。

 それから、佐藤のアパートで二人暮らしが始まった。

「トシはその彼女のこと知っているのか」

「はい。うちで何回か一緒に遊んだこともありますよ」

 猫を飼おうと言ったのは彼女のほう。実家にも猫がいて、彼女は猫が大好きだった。

 同棲し始めて三ヶ月ほど経ったころ。一歳のヒイロがうちにやってきた。

 それから、楽しいときも、喧嘩したときも、いつも二人の間にはヒイロがいた。

「去年の夏くらいっすかね、彼女がちょいちょい友だちの家に泊まりにいき始めて」

 男二人、そのまま公園に入る。

「あの頃はほんとつらかった。一人で寝床に入るのが、ほんとにつらかったっす。寝床で、帰ってこない彼女を待つことが」

 友だちは女性だろうとは思っていた。信じていたというより、実際女性だったはずだ。

 ただ、そこには男もいただろう。

 彼女が遊びにいくことは容認していた。

 ただ、夜は帰ってきて欲しかった。彼女には最期まで言わなかったけど。

 そして、彼女の口から告げられる、別れ。

「なんとなくわかってるかもだけど、他に好きな人ができたから」

 怒ってもいい場面ではあるだろう。

 わかってるかもって、なんだ、どういうことだ?

 感情は、昂ぶることなく、渦に巻き込まれるように揺らいで揺らいで沈んでいった。そのとき、ヒイロは男の膝の上にいた。

 こんなに重たかったのかと、やってきたときの重さが俄かに蘇り、一瞬で戻った。ヒイロの背中だけをじっと見つめていた。

 そのまま彼女は部屋を出ていった。夜で、部屋に電気はついていただろうが、イメージのそれは暗室だった。

 彼女の顔も見えない。ヒイロの背中の模様だけが浮かび上がっていた。

 ヒイロの背中の模様と、自分の泣き顔だけが。

 涙と沈んだ感情は別れを告げられた己だけのことではなく、こういう別れ方を繰り返す(しかない)彼女が哀れになったためでもあった。

 これでいいのか?

 よりを戻そう、腕を引いて連れ戻したほうがいいのか?

 別れた悲しさに彼女の哀れさが入り混じって、男の心はグラグラに揺らいだ。

 三ヶ月間、男を「この場」から動かすことをさせなかったのはその混乱だけではない。

「ヒイロなんです。ヒイロがいたから」

 当然だ。ヒイロがいればこそ寂しさは紛れ、彼女の代わり(言葉は悪いが)を、または彼女の面影を、ヒイロに託していたのだ。

 ――ヒイロがいれば彼女が戻ってくるかもしれない、という……。

 思いも、佐藤の口から語られはしなかったがあるに違いない。

 語りがひと段落して、二人はヒイロの名前を(控えめに)呼びながら公園を、そして公園を出て近くを捜索した。

 結局、二時間ほど歩いたが、この日もヒイロは見つからなかった。捜索打ち切りを決めた飼い主。

「ありがとうございました。また明日探してみます」

 時刻は夜の十時を過ぎていた。実際、控えめとはいえ名前を呼びながら歩いて回るのが憚られるような静けさだ。

「申し訳ない、あまり役に立たなかった」

「そんなことないっす。一緒に探してもらって、なんか精神的にも楽になりました。家まで送ります」

 そう言って歩き出す佐藤の後ろにつきながら、アパートの駐車場に戻ってきたとき。

「紙と鉛筆か、なにか書くものないかな」

「はい。部屋の中に」

 二人は部屋に戻った。

「なに書いてんすか」

 という佐藤の問いにはすぐに答えず、思い出し思い出ししながら書き上げた。

「たち別れ、いなばの山のみねに……、なんすかそれ?」

 《たち別れ いなばの山の 峰に生ふる 待つとし聞かば 今帰り来む》

 百人一首中、在原行平の和歌。

「これを玄関とか、猫が入ってきそうな場所にはっておく。いわゆるおまじないだ」

「おまじない?」

「ばかばかしいと思うかもしれんが、こんなものでも少しは役に立つ。気持ち的に、少し楽になる。あと、猫の食器を伏せてその上に灸をすえるとか、灸などないか。こういうことをやって見つかった、という実体験談もある。まあ、それがまじないの効果かどうかは、飼い主の気持ち次第だが」

「先輩、ありがとう、ございます……」

 ぐっと顔を伏せて肩に力が入った。その肩が、少し揺れた。

 泣いているのか。

「おいおい」と声をかけようとして、やめた。涙の理由は、一つではないだろう。 

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