二〇一号室の先輩 (3)

 佐藤に「別れ」を言って出ていった彼女は、そのまま新しい「彼氏」のアパートに入ったという。

 佐藤が仕事から帰って、彼女の荷物がなくなっていたのはそれから一週間程後。

 部屋の一隅にあったドレッサーがなくなっていたのを見たとき、小物や本、そしてがらんとしたクローゼットを見たときの辛さは、今思い出しても胸が苦しくなる。

 玄関に戻って、郵便受けを開けて、そこにあった合鍵を見て、手に取ったときの鍵の冷たさ。カラン、と郵便受けに鍵の落ちる音が聞こえた。終わりを痛感した。

 その後、一月中くらいはラインのやり取りも多少はあったが、二月に入ってすぐ「もうラインもしないでおきましょう」というラインがきた。

 このままもう連絡がとれなくなることに「納得できない」という内容のラインを送ったが、返事はなかった。

 既読になっていることは、酷い仕打ちか、救いか。残酷な天使のテーゼ。

 仕事中、彼女のことを思って手が止まるなどということはザラだった。

 遠ざかる彼女の姿、反対にこちらに駆け寄ってくる、かりかりご飯を食べる、膝の上で喉をゴロゴロ鳴らす、ヒイロがいた。

 空虚な胸の内はヒイロがすぐに埋めてくれた。仕事が動き出すとき、佐藤の顔はいつもほんのり笑顔だった。

 責任のほとんどを自分の身に背負ったせいもあるかもしれない。彼女のせいにするよりも自分のせいしたほうが楽だから。

 彼女が幸せであることを願った。寂しさは自分が背負えばいい。そのほうがかっこいいし、「贖罪」にもなる。罪を背負って不幸に耐えることが「救い」になる。

 それではまさにキリストだ。

 さすがにそこまではやりすぎだから、佐藤は自分に「それほど不幸ではない、むしろ幸せだ」と言い聞かせる。

 職場があって、友だちや同僚がいて。ヒイロがいて。自分はいかほども不幸ではない、と。

 三ヶ月、ヒイロがいなくなる。そして、彼女からの電話。

 久しぶり、マー君、元気だった? 久しぶり、元気だったよ、あやっちは、元気? ……、あんまり元気じゃないかも。え、なんかあったんかい。うん、いろいろ、……。

 その電話は、まるでSOSのような。

「マジで? まさか、殴られたりとか?」

「殴られるとかはないけど、『てめぇ』とか言われたり、あとは突き飛ばされたりとか」

「ひっでぇ! そりゃ、そのうち殴るって! 最悪の男じゃねぇか!」

 部屋のほとんど真ん中、正方形のテーブルを囲んでいる。

 ベッドを背にして佐藤、向かい合いテレビを背にするように眼鏡、二人の間、佐藤の左手で眼鏡の右手にツンツン頭。

 まるでしっくりする座り位置だ。

「確かにひどい男だな。佐藤くんは、会ったことは?」

「ないっす。彼女が遊びにいくときに、近くまで迎えにきていたらしいけど」

 遊びにいくとき、というか、彼女が別れを言ったときもきていただろう。

 ここでも「反復」している。佐藤も気づいているはず。気づいていることに気づいていない。というか、時に忘れるのか。

 トシが真面目に言う。真面目というか、怒ったように。

「要は、彼女は、その最悪男と別れてお前とよりを戻したいと、そういう電話だったわけか。少し考えさせてくれ、つって次の日に電話をした。彼女も都合がよすぎると言えばよすぎるが、そんな男と一緒にさせてらんねぇだろ。お前は『うん』と言ったのか?」

「いや。その彼氏と離れたいという話ではあったが、よりを戻したいということまでは」

「話の流れ上、そういうことだろう。それで、お前からも電話して?」

「最初に電話くれたとき、途中で彼氏が帰ってきたみたいで、そこで話が終わっちゃったというか、『ごめん、気にしないで』みたいな感じで終わっちゃったもんだから、次の日こっちから電話したんだ。ラインで聞いたら、彼氏は帰りが遅くなるっていうから」

「で、彼女の愚痴をただ聞いてただけってことか」

「いや」

 と言った佐藤の顔に、僅かだか色が差したようだった。

「彼女はアパートを出たいと言ったんだ。ただ、住むところがないから、お金を貯めて、部屋を借りられるくらい貯まったら出る、と言ってた」

「バカか、お前。悩む話じゃない。お前が一言『戻ってきてやり直そう』と言えばそれで解決する話だ」

「それは、俺が言うことじゃなくね。俺は振られたんだぜ」

「めんどくっせぇな、お前。今から電話しろって。俺が話してやるよ、ここに帰ってこい、てな。スマホ貸せ」

「やだよ、バカ言ってんな」

 貸せ、貸さない、というやり取りを片耳で聞きつつ、先輩は窓の外に意識を傾けていた。

 ヒイロは首に鈴をつけているという。

 窓は締め切られてカーテンにも遮られているが、どうも、今にも鈴の音が聞こえてきそうな予感がしていた。

「落ち着けって!」

「うるせぇ、この早撃ちマックが!」

「なんだよ『早撃ちマック』って!」

「すぐいっちまう男のことだよ! 彼女を満足させる自信がねぇのか!」

「お前、なにわけわかんねぇこと言ってんだ! そういう問題じゃねぇっつうの!」

「うるせぇ! ちくちょー! 合コンすっぽかしてきてやったつうのに! なんでそんな話聞かされなきゃなんねんだよ!」

 結局そこに戻るのか。

「トシ、ほんとにちょっと落ち着け。で、最終的にどういうことになったんだ? 彼女との話はそこで終わったのか?」

 不毛な言い合いを先輩が引き取る。

「そうですね。そんな感じで」

「で、モトカレとしては、どうしたいんだ?」

 小さい声でぶつくさ言っている男を無視して話を進める。

「連れてきたい、と思ってます。この部屋に」

「めんどくせぇな。最初からそう言やいいんだよ。彼女にも」

 事実、最初から言えたことかどうかはわからない。持っていたダーツを「連れてくる」という目標に向けて投げたのは、つい今だ。

 友人や先輩に煽られたかもしれないとはいえ、今、はっきりと口にした。言葉が気持ちをリードする。

 後輩の背後、ベッドの足と壁の間、猫タワーが立っている。今は「使うもの」のいないそのタワーが、なんだか象徴的だ。

「さて、いついく? これからか? 明日か?」

 妙に引き締まった顔で言う後輩を、誘拐にいくわけじゃないんだぞ、と嗜めようとして、やめた。

 こういうのはヒール(悪役)になったほうがやりやすい。佐藤本人はと言えば、しかつめらしい顔でテーブルをじっと睨んでいた。

「さすがに今からは無理だよ」

「じゃあ、明日か。先輩」

「昼間は仕事だぞ。二人でやるなら別に止めんが」

「じゃあ、夕方からっつうことで。何時にするかね」

 ヒイロの不在を忘れているようだった。

 連れ戻すのはヒイロか彼女か。

 二人の話に割り込むことなく、窓の外、肌寒いベランダで待っている猫を思い浮かべた。

 帰りしな、車に戻るときにも、ベランダをのぞいていこうかと思ったが、止まった。佐藤がきっと見るだろうから。

 その夜、佐藤から「発見」のラインはこなかった。


 翌土曜日の朝、ベランダに、ヒイロがやはりうずくまっていた。

 佐藤は、拾い上げぎゅっと少し強めに抱いた。その耳元で「にゃぁ」と小さく鳴いて。力ない声に聞こえた。

「たくさん遊んで疲れたか。それとも、なにか恐い目にでも合ったか」

 にゃぁ。春の朝日がいつもよりも眩しい。空全体が白く輝いているようだ。

 薄い雲が空一面を覆って、光がシャワーのように降ってくる。鳥たちの鳴き声も、いつもより心なし張りがあるようだ。

 佐藤の顔も自然と笑顔。ヒイロを抱えたまま部屋の中に戻ると、窓を閉めて鍵をした。

 フローリングに降ろす、餌のある場所まで小さな鈴を小刻みに鳴らして小走り。餌を食べるカリカリという音が、なんだか懐かしかった。


 発見のラインに続いて、エックスデーをもう一度考えたいと書いてきた。やはり、ヒイロが見つかったことで気持ちが萎えたか、と思った。

 が、そうではなく、攻めるべき城の場所がわからないという。

 一晩たって(ヒイロも帰ってきて)落ち着いてみると、他にも再考すべき要素があるような気がする、と。

 もっともではある。

 ということで、今晩、改めて練り直そうということだった。

〈じゃあ、先輩のうちに集合で!〉

 あっちにも連絡は入るだろう。トシからのラインでこうきた。

「なんでだ」

 その言葉と気持ちを送信することはしなかった。しても無駄であろうし、説得力のある材料はない。

 コタツの上に置いてある雑誌をめくってみる。土曜日の朝、情報番組に向かって「それはないだろ」と声をかけた。今日だって、仕事が何時に終わるかわからない。

〈終わったら連絡ください、今日は合コンないんで、何時でも大丈夫です〉

 テレビを消して、部屋を出た。

 

 よく、自分が学生になる夢を見た。

 登場人物は今近くにいる人たち。教室で勉強してる、あるいは学生生活を送る夢。弟は東京で社会人として働いているが、夢の中での弟は小学生だった。

 弟が中学に上がるときに、己は大学にいくために家を出て一人暮らしを始めた。

 大学はまったく順調にいかず、なんだかんだ六年間出っ放し。その間に弟は高校を卒業、就職して東京に出た。

 今ではほとんど連絡もない。

 ――夢の中で、弟は笑ってないかもしれない。

 高校受験、あるいはその先の進路相談、兄として、何一つしてあげることはなかった。

 罪悪感。ちゃんと働いている弟に対するコンプレックス。

 そんな想いを文字にして表すことなど、してない。いつか、さらけ出せるときがくるのだろうか……。


 夜の八時、茶色いアパートの二〇一号室、三人が囲むコタツの上に、鍋がぐつぐつ湯気を立てていた。

「カレー鍋、悪くない」

「でしょ。肉とかまだまだあるんで。当然、雅人のおごりだから」

「フォーティーエイトとか、フォーティーシックスとか、まだ人気あるんすかね、あるんでしょうね」

 テレビと向かい合う部屋主、左手にトシ、ちなみに、トシの背後は狭いながらも台所で、冷蔵庫があり、洗面所もこっちにある。

 佐藤は、先輩の右手、本棚を背にして狭い場所に滑り込んでいる。

「この葱うまいな」

「当たり前、下仁田だから」

「確かに、センター近辺のこたちは可愛い、存在感はある。しかし、レフトとかライトとかの子はどうなんだ。センター、レフト、ライトて、野球かよ」

 缶ビールを飲み始めてから、佐藤はほとんどテレビと話をしている。

 と言うより、一人で話している。野球にしては人数が多すぎる。

「おまえら普通に飲んでるが、大丈夫なんだろうな」

「全然よゆー。早くきれいにしちゃってよ。最後にうどんあるから。雅人も早く食えって。なくなるぞ」

「今ならはるかちゃんかな。このCM好きだ。先輩、眼鏡曇ってるし」

「佐藤君、顔真っ赤だけど大丈夫か」

 なんかキャラ変わってるし。

「こいつはほっといていいから。ちょっとトイレ借ります。後でシャワーも借りるかも」

「おまえら、まさか泊まるつもりか、わたしは明日も仕事だぞ」

「全然気にしないっす」

 それはお前の言う言葉じゃないだろうが。水洗の音がやたら大きいのがこのトイレの特徴だ。トシが席に戻る。

「すっきり。アルコール飲むとね。ビール終わった? 先輩、焼酎とワインどっちいい?」

「ワインはあんまりだな」

「じゃあ焼酎で。氷あるでしょ。ウーロン茶でいいよね」

「毎日のように出てるけど、この人なんでこんなに人気あんだろ。面白いのは面白いけど、どの番組もみんな一緒っつうか。面白いんだけど。理解できねぇ」

 どっちだよ。

「佐藤君、けっこう飲むな、うむ、やはりカレーは間違いない」

「いやいや、俺の差配がいいんだって」

「ただ入れてるだけでしょ、お、ニヒル・アドミラリィ。やっぱこのこたちサイコー」

「おまえはテレビ観てればいいんだよ。そろそろうどんいきますか」

「かまわん、入れろ、明日、八時には出るぞ」

「とうにゅうー! 朝は、そんとき考えます。うどん、いきまーす」

「いってらっしゃい」

「……」「……」

 隣の部屋の大学生、いったい何を思うだろうか……。

夜中の二時を過ぎて、二〇一号室はまだ明るい。

 部屋の中は、静かだった。ほとんど空になった鍋は火も止まって冷たくなっている。コタツには二人が刺さっている。

 尿意を覚えて、部屋主が上半身を起こした。眠い目を漸く開けて、部屋の中を確認。右手にはトシが寝ている。

 童顔のあどけない寝顔に無精ヒゲが僅かに。

 咄嗟に油性マジックで落書きすることを想像したが、さすがに実行に移す気はない。

 左側は空っぽ。その空の席をぼんやりと眺めながら、もう一つの寝息を聞いていた。

 スウスウといかにも心地よい寝息が、背後で漏れる。

 背後は万年床。万年部屋主の寝床であったその蒲団で、後輩の連れがゆうゆうと寝そべって爆睡していた。その余りに自然な寝顔を見ていると……。

 トシを横に並べて掛け布団をかぶせて写メでも撮ってやろうか。

「おまえら、いったいなにしにきたんだ」

 呟くのが精一杯の抵抗だった。

 玄関のドアの顔部分の曇りガラスの向こうにふっと気配を感じた。ドア自体が時折カタカタ鳴った。風が強そうだ。

 冷蔵庫が鳴っている。立ち上がり、トイレにいった。

 朝は何かとめんどくさそうだ。仕事の準備のため、お湯を出してひげをそり始めた。

 酒を飲んで爆睡している二人の「後輩」に遠慮して、夜中にヒゲをそる。部屋主で先輩の哀愁ある背中が見えるようだった。

 ――そう言えば、生ヒイロにはまだ会っていないな。

 ヒイロと佐藤の彼女に会うイメージがありありと浮かんでいた。いつ会えるのかは、まだわからないのだが。

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