大怪盗

sin30°

大怪盗

 ない。


 そこにあるべきもの、あるはずだったものが、ない。目をこすっても斜めから見ても、のぞき込むようにしても、ない。


 頭にまで流れ込んでくるような冷気の中、全身の力が抜けていくのを感じる。すんでのところで膝から崩れ落ちるのを堪え、もう一度、ゆっくりと「それ」があったはずの場所に目をやった。何度見てもやはり「それ」はなく、代わりになにもない空間だけがそこにはあった。あまりの絶望感に、内臓を抜かれたような錯覚に陥る。

 けたたましい車のクラクションと甲高い急ブレーキ音が闇夜を裂くように遠くから聞こえてきた。耳をつんざくような騒音に一瞬身を竦めるが、またすぐに元の静寂が戻る。


 諦めきれずもう一度覗いてみたが、改めて見たところであるはずもない。自分の今日一日が無に帰したと言っても過言ではないほどの喪失感。

 徐々に頭の方に血がのぼっていくのを感じて、少し遅れてそれが怒りによるものだとわかった。苛立ちに任せて扉を勢いよく閉め、天を仰いだ。

 犯人はほとんどわかっている。その顔が頭に浮かんで、大きくため息をつく。ゆっくりとその場を離れ、スマートフォンのロックを解除した。


***


「俺のプリン、食べたでしょ」


 そう言われてキョトンとした顔をしているのは、バイト先である個別指導の塾から帰ってきた俺の彼女、小野寺かんな。大学に入る前から付き合っているこの彼女は、大学入学を機に一人暮らしを始めた俺の家に週の半分くらいは泊まっていく。

 そんな彼女は今、帰って来て早々俺に睨まれ、靴を片足脱いだところで口をパクパクさせている。

 二人掛けソファの玄関側、つまり右側に腰掛けた俺は、明らかに戸惑った様子のかんなの目をまっすぐに見つめている。

 ゆっくりともう片方の靴も脱いだかんなは、ただでさえ大きいのに化粧でさらに大きく見える綺麗な目をぱちくりとさせてゆっくりと口を開いた。

「……大事な話があるから急いで帰って来てって、もしかしてこれのこと?」

 その言葉に重々しく頷いた俺を見たかんなは、信じられないと言ったように大きく目を見開いた。

「ホントに言ってんの⁉ 私めっちゃ急いで帰ってきたんだけど!」


 泣き出しそうな表情でそう叫んだかんなの額には汗が浮かんでいる。一生懸命帰ってきたというのは本当みたいだ。塾がある隣の駅までは俺が歩いて十五分くらい。その道のりをスーツにパンプスで急いで帰ってきたのだから、相当しんどかったに違いない。しかもマスクもつけているから尚更。

 ふうと息をついたかんなは、ズボンのポケットから取り出したカスタードみたいな色のハンカチで汗をぬぐい始めた。結構な罪悪感に襲われるが、こちとら楽しみにしていたプリンを食われているのだ。ここで怯むわけにはいかない。


「それはごめん」

 普通に謝っちゃった――! あれこれ考える間もなく、俺は自然と頭を下げていた。

 いやこんなん謝らずにはいられないって……。可愛い彼女が俺のしょうもない話のために頑張って帰って来てくれたんだから。いや全然しょうもない話じゃないけどね?

「でも!」

 思いのほか大きな声が出て、かんながビクッと体を震わせる。「あ、ごめん」と一言挟んで、俺はもう一度口を開いた。

「でも、プリンを食べたのは重罪です」

 そう言ってじっと顔を見つめると、かんなは「えー、私食べてないよ~」と気まずそうな笑みを浮かべ、俺の視線から逃げるように洗面所の方へ歩き出した。一つ結びにしたツヤのある黒髪が一歩進むごとにふわりと揺れる。


 少しあって、水が洗面台を流れる音が聞こえてきた。

「食べようと思ってどっかに置きっぱなしにしてるんじゃないのー? それか食べちゃったのを忘れてるかー」

 パシャパシャと手を洗いながら、その音をかき分けるように彼女の声が飛んでくる。

「いや絶対触ってないよー」

 俺も水の音に負けないように喋ったせいで、なんとも呑気なテイストの口調になってしまった。そんな俺の声は向こうに届かなかったようで、やがて水を流す音が止まると、今度はうがいの音が聞こえてきた。


 絶対に俺じゃないんだよな……。今日、ゼミの発表が終わったら自分へのご褒美で食べようと、大事に大事に冷蔵庫の奥に入れておいたのだ。俺がなくすはずがない。ましてや食べたのを忘れているなんてもってのほかだ。

 というか、あなた今までに何度も俺のお菓子やらデザートやらを勝手に食べてきたじゃないですか……。実績十分の大怪盗じゃないですか……。

 そんな疑いのまなざしは壁に遮られ、その壁の向こうからはガラガラといううがいの音が聞こえてくる。

 少し長めに水を流す音がして、「つかれたよぉ~」とげっそりした表情のかんなが部屋に入ってきた。かんなはそのままフラフラと部屋の端の台所に足を進めて、冷蔵庫の扉を開いた。コップに冷えた麦茶を勢いよく注ぎ、立ったまま腰に手を当てて一気に飲むかんな。一仕事終えた達成感を湛えた目でどこか遠くを見つめる表情が、なぜか男前に見えた。

 ワイルドだな……。塾では大人しくておしとやかな子だと思われてる(本人談)人とは到底思えない。つか直前までフラフラだったのになんで急にキリッとしてるんだよ。麦茶凄すぎるだろ。

 ぷはぁとビールのコマーシャルばりに声を出したかんなはコップを流しに置いて、しっかりとした足取りで俺の隣にどっかりと腰を下ろした。


「そんな怒らなくてもよくない?」

 小さく息を吐いてこちらを向いたかんなは、眉尻を下げた困り顔をしていた。それでもすぐにハッとした表情をして、「あ、別に私が食べたわけじゃないけどね?」と焦ったように手をパタパタさせながらそう言った。

「いいや怒るね、大切なプリンを食べられたら俺は怒るよ」

 そう言ってかんなの目を見つめると、「なんでそんな真剣な顔してるの……」と呆れ顔をされた。

「別にそんな高いやつでもないでしょ? コンビニとかスーパーとかで売ってるじゃん」

 口角を上げて、なだめるようにそう言ったかんな。だが、肝心なことをわかってない。

「いやいや、今日一日のご褒美でとっておいた最後のプリンだよ? その辺のプリンとは思い入れが違うから。冷蔵庫開けてプリンがないって気づいた瞬間プッチンときたよ」

 流しの横の冷蔵庫を見ながらそう付け加えると、かんなはより深く呆れたような表情になり、こめかみを押さえて口を開いた。

「そりゃよっぽどだね……。別に上手いこと言えてないし……」

 やれやれとばかりに首を左右に振ったかんなは、立ち上がってスーツのジャケットを脱ぎ、着替えを始めた。


 部屋の入口の方へ足を進めたかんなは、いつの間にか半分くらいがかんなの服になったクローゼットを開け、ハンガーにかかった真新しい黒いジャージを引っ張り出した。つか俺の服はなんでそんな隅に追いやられてるんですかね……。一応ここ俺の家なんですけど。

 二人でランニングをしようとお揃いで買ったものの、ほとんど着た記憶のないジャージを抱えたかんなはくるりと振り向いた。

 なぜか誇らしげな笑みを浮かべているかんなは、嫌な予感を覚えている俺をよそに勢いよく両手を上げ、大きく息を吸い込んだ。

「よし、コンビニ行こう!」

 麦わら帽子の海賊ばりにそう言ったかんなは、「ほらほら、私がいくらでもプリン買ってあげるからさ」と俺の手をぐいぐい引っ張ってくる。悪魔の実は食べてないけどなんか腕伸びそう。あと普通にめっちゃ痛いからやめてほしい。



「意外と夜は涼しいねぇ」

 歩きながらうーんと大きく伸びをしたかんながこちらを向く。左胸にピンクのワンポイントが入った黒いジャージが思ったより似合っていて、ほんの少しの間視線を奪われる。

 住宅地の路地を歩いてコンビニへと歩く。まだ夜の十時過ぎだが、半分くらいの家は明かりが消えていて、カーテンの隙間からほのかに光が漏れている残りの半分からも活動的な気配は感じられない。

 コンビニまでは五分もあれば着く。もう少し都会なら歩いて一分でコンビニ、なんてのはザラかもしれないが、遠くの方にぼんやり高層ビルが見えるくらいのこの地域じゃこれくらいが関の山だ。


「ねえ」

 左隣から、強い風が吹けばかき消されてしまいそうな声がした。夏が来る少し前の、重たい湿気がどこかへ飛んでいくような気がした。

 続けて、息を吸うような気配。

「クロノスタシスって知ってる?」

 そう言ってこちらを向いたかんなの表情には、わずかに影が差しているように見えた。

「……お前はきのこ帝国か」

 やれやれと首をすくめてみせると、かんなは不満さを全力で主張するようにしらーっとした目を俺に向けた。しばらく抗議の視線を向け続けたかんなだが、俺がニヤニヤしてまともに取り合わずにいると、プイっと前を向いて「つまんないのー」と呆れたように呟いた。

「分かってんなら乗ってくれたっていいじゃんかー」

 チラリと横目でこちらを見たかんなは、肩を落として大きなため息をついた。

「いや知ってるからこそ乗っかるのが恥ずかしいんだよ……」

 ごっこ遊びしてるみたいで小恥ずかしくなるんだよな……。しかも時計の針は0時を指してないし二人とも歩くのが早いからBPMは83どころじゃない。つかあの歌、そんな楽しい歌じゃないからあんまり真似したくないんだよ察しなさい。



 コンビニまであと一分か二分といったところの交差点で、目の前を黒いワンボックスが通った。

 線が消えかけている横断歩道の前で立ち止まったかんなは、「いやぁ……」と不自然に伸びをし始めた。何度か手を組んで伸ばしたあと、糸の切れたマリオネットのようにカクンとうなだれた。

「――プリン食べちゃった。ごめんね?」

 かんなはきまり悪そうに潤んだ視線をこちらに向けている。いきなりの自白に面食らったが、これ見よがしに胸の前で組まれた手からはずっと言い出せずにいたけど勇気を出して言いました感がひしひしと伝わってくる。


 結局これなんだよな……。しょっちゅう俺の食べ物を奪っていくこのかわいい大怪盗だが、怒ろうとするといつもこの視線を向けられ怒る気を削がれてしまう。ここに未だ捕まらない大怪盗の大怪盗たる所以があると言えるだろう。

 完全に舐められている。ここでまた罪を許せば第二第三のプリンが生まれてしまうに違いない。心の中の銭形警部を呼び起こし、心を銭に、もとい鬼にしてかんなの目を正面から見つめた。

「……まあ最初から分かってたし別にいいよ」

 気付けば俺はそっぽを向いてそんなことを口走っていた。視線を向けた先の街灯がチカチカと点滅する。

 銭形警部、敗北……! つか、よくよく考えたら銭形警部っていっつもルパンに負けてたわ。勝てるわけなかったわ。


 視線を戻すとかんなは「優しいなぁ」なんて適当なことを言いながらニコニコと笑顔の花を咲かせていた。

「てかなんで今更?」

 またゆっくりと歩きだしたところで問うと、かんなは少し気まずそうに「え」と喉で詰まったような声を出した。

「いや、あんな怒ると思わなくてさ……」

 こめかみをかいて苦笑いを浮かべたかんなは「ごめんごめん」と手刀を切るような動きをした。すげえおっさんくさいな……。

「いやまあもう怒ってないからあんま気にしないで」

 実際全く怒っていないわけではないが、こう言わざるを得ない流れになってしまっている。完全に手のひらの上で踊らされてんな、俺。

「ふっ……ちょろいな」

 ニヒルに口の端を吊り上げてこちらを見ているかんなの頭にチョップを入れる。

「いったいなぁ……。まあまあ、そういうちょろいところがいいんじゃんか~」

 俺に叩かれた頭を抑えながらも、語尾に音符がつきそうな口調で甘えたようにくっついてくるかんな。妙な気恥ずかしさから、そろそろコンビニかな、みたいな小芝居を打ちつつ進行方向に視線を向ける。前方の道路にはやたら明るいコンビニの光が広がっていた。


 弾けるような笑顔を浮かべているかんなは、乱暴に俺の腕をとって腕を絡める。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

大怪盗 sin30° @rai-ra

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ