純愛試行

ユーライ

じゅん‐あい【純愛】

{名} 純粋な愛情。利害を考えない、ひたむきな愛。

――精選版 日本国語大辞典



 人間の吐く息だった。

 間断なく吐き出される空気は、死を前にして灼熱となり、空洞の冷えた領域に染み渡っていく。外はうだるような熱気に満ち、月明かりも届いているというのに、一歩踏み出したトンネルの中は、途端に漆黒と冷気の異界となっていた。

 そしてその正気と狂気の境界線を跨ぎ、シルエットのままこちらに歩み寄って来る闇の塊が一つあった。

 銃声が響く。重く鋭い爆発音が蓋をされた空間に反響した。距離がわからない。どこに当たった? 男は己の人生の潮時を頭に過ぎらせ、少しでも見誤れば命がない状況で雑念を押しやり、押しやりしながらとにかくその闇から出口に向かって逃げ続けていた。すぐ背後にはまた別の呼吸が男に続いていた。女だった。その女は男の手を握って、必死に男に付いて来ている。大丈夫だ、と男は思う。後ろを振り返る余裕こそないが、右手にはしっかりと、覚えのあり過ぎる人肌の体温が感じられるのだ。

 また銃声が轟く。コンクリートの壁面が穿たれて破片が飛んでくる。出鱈目に撃つのではなく、一発ごとに修正を施した軌道に戦慄する。だがここで足を止めたら死ぬのだ。視界は真っ暗で、前に進んでいることしかわからない。体力の限界を超え、疲労からくる暗さなのかすら判別がつかない。肉体を自分の意思で動かしているのかわからず、ひたすらに足を駆動させながら、男は不思議な音を聴いた。

 ああ、この音はなんだ、鳴りやまぬ銃声の只中にあって、耳に届くこの音はなんだ――。

 突如として、視界が開けた。眼に飛び込んできたのはそり立つ断崖と、その向こうに見える海だった。そうか、波の音か。男は気付くが早いか、後ろを振り向いた。右手を握ったままの女は、今にも身体が崩れそうに息を吐いている。束の間の安堵、しかし男は女の背後に迫る闇を見た。

 否、闇ではない。闇の中にあって発光する二つの点。碧く輝くそれは、間違いなく闇の正体だった。

 男は咄嗟に女を抱え上げた。了承を聞く暇があるはずもなく、男は女を断崖の遥か下にある海面に放り投げた。男は下方を見つめる。今やトンネルを満たした暗黒の延長線上にある世界の中では、女の姿は小さく溶けていくしかなかった。それを認めると、この状況にあってなお、男は放心したようになった。身体は燃えるように熱く、世界が不明瞭になり、ぼやけた。突如胸に違和感を覚える。確認するまでも無く、血で染まっていた。男は、結局それまでだった。

 地面から足を踏み外し、女が描いた線をなぞるように、たゆたうどこかへ落ちていく。岩壁に波飛沫がぶつかり、人間だったものは隠されるように見えなくなった。

 殺人を行った闇はそれを眺める。暗黒の中で二つ、覗き穴を穿たれて光る眼。それは水晶を埋め込まれたような輝きを放っており、碧かった。闇は、人間らしく息を吐いた。そして、結んだ髪を振りほどく。

 肩より下まで長く伸びたブロンド。血を浴びず乱れないままに、美しく整えられていた。殺人者に似合わぬ美貌ながら、その実本来持っていた艶やかさは完全に失われており、くすんだ色合いは闇の闇たる所以だった。

 闇は、虚空を仰ぐ。月と星は姿を見せていながら、闇にとって明かりは明かりでなく、光は光でなかった。ただ、忌々しくも主張する二つの目玉があるだけだった。眼を閉じるまでもなく続く黒さに、闇は微笑む。このまま世界と同化し、何もかも消えてなくなってしまえばいいのだ――と。

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