第30話 ミコト
その違和感に気付いたのは、娘のミコトが亡くなってから一週間がたった日の朝だった。
仏壇の水をかえ、弾けるような愛らしい笑顔が収められた写真立てに向かって手を合わせたとき、ふと、視界の隅に映り込んだ一体の抱き人形が気になったのだ。
視線が刺さるような、見られているような。
みれば、感情の無い黒いビーズの目が私に向けられている。それがなんだか不気味に感じて、人形の向きを変えようと手を伸ばしたとき、違和感の正体が何なのかが分かった。
妙に、人形の髪がくすんでいるような気がするのだ。買った当初は美しいブロンドだった髪が、今ではすっかりごわごわになり、色が抜けかけているところがある。
しかし、気になったのはそんな年月による変化ではなく、頭の天辺から墨が染み出たような、薄暗い色の変化だった。ひとつ気付くと、他にも気になるところが出てきた。頬が少し、引き締まったような気もする。抱き人形はもともと、子供らしさを演出するために、多少大げさに頬を膨らませて作られていることがあり、この人形もそうだったはずなのだが…
頬の空気が抜けてきているのだろうか。髪の長さも少し変わっているような気もしたが、それは流石に考えすぎだろう。人形を抱き上げて、そっと頬をつついてみると、ぺこ、と軽い音をたてて薄い桜色の頬が落ち窪んだ。
そもそも、こうしてじっくりと人形を見るのは随分と久しぶりのことだった。いつだったか、ミコトをデパートに連れて行ったとき、アニメのおもちゃや動物のぬいぐるみよりもこれがいいと言ってねだられ、仕方なく買い与えたものだった。
青いドレスを纏った抱き人形は、ミコトによって「みいちゃん」と名付けられ、随分と大切にされていた。どうやら、私がミコトのことを「みいちゃん」と呼ぶのを真似たらしい。
そういえば、汚れが酷くなったのを見つけて洗濯機に放り込んだとき、みいちゃんが死んじゃう、かわいそうだと泣きつき、なじってきたこともあった。一人っ子のミコトにとっては、「みいちゃん」は妹か双子かそれとも仲の良いお友達だったのだろう。
思い出に浸りながら人形をみていると、ふと、昔、祖母から聞いた人形の話が脳裏に浮かびあがってきた。北海道にあるお寺に収められているという、髪が伸びる人形。お菊人形の話である。
大正七年、鈴木永吉という男が札幌で開催されていた大正博覧会へ訪れ、当時三歳だった、娘の菊子への土産としておかっぱ頭の日本人形を買った。人形をもらった菊子は、毎日のように遊んでは、寝る時も一緒の布団に入れるほどの可愛がりようをみせた。ところが翌年、菊子は突然幼くして亡くなってしまう。悲しみにくれた永吉は遺骨と人形を仏壇に祀ったが、同時に奇妙な現象が起き始める。オカッパだった人形の髪は徐々に伸びていき肩にかかるほどまで伸びたのだという。寺に預け供養をしたが、死してなお成長する菊子を重ねたように、未だに髪は伸び続けている…
自分の娘の話を御伽噺のような怪談に結びつけるのは随分とおかしなものだが、逸話の菊子と同じように、突然手の届かないところにいってしまったせいで、不思議と親近感のようなものを感じていた。
実際、人形の髪が伸びるのかどうかはわからないが、もしミコトがまだ近くにいる証なのだとしたら。そう考えると奇妙な人形の変化がなんだか愛らしく思えてそのまま胸に抱きしめた。ミコトがかつてそうしたように。ミコトにかつてそうしたように。私に怒られて大泣きしながら抱いた晩には、幾粒もの涙が染み込んでったに違いない。お昼寝したときには、たらりと涎が垂れたのかもしれない。
すん、と鼻をすすると、なんだかミコトによく似た匂いがした。この人形は、本当は火葬のときに棺にいれてやるつもりだったのだが、直前になってどこに置いたかわからなくなって断念したのだった。一通り終えて帰ってくると机の下にころりと転がっているのを見つけてがっかりしたものだが、捨てることも出来ずに仏壇の近くにおいていたのだった。
物言わぬ人形を眺めていると、娘と過ごした短い時間がぐるぐると頭をかけ巡る。ただの風邪だと思って油断していた。仕事が忙しいからと娘をないがしろにしてしまっていた。熱はぐんぐん上がり、痙攣を起こし、夜中慌てて救急車を呼んだときにはもう遅かった。
もし時間が戻せるのなら、こんなミスは絶対にしない。母と子の、平凡で騒がしく、そして充実した一日を、今日も過ごすことができていたはずだ。後悔ばかりが渦巻き、知らぬうちに頬が塗れ、滴って人形に降りかかった。
「みいちゃん、また会いたい。戻ってきてママと一緒に居て、みいちゃん」
誰にも届かない言葉を吐き出し、人形を抱いたまま一人、さめざめと泣いた。
それから数週間がたち、四十九日も無事に終えた頃、ようやく家にかつてのような日常が戻ってきた。かけがえの無い当たり前を失わないように。過去の失敗を繰り返さないように、今度こそは大切にしなければ。
「みいちゃん、今日はどんな髪型がいいかな」
綺麗で柔らかいセミロングの黒髪にそっと指を通すと、くすぐったそうな声が聞こえた。窓の外から、朝の演出にふさわしい都会の鳥の声がする。時計をみると、通勤のバスの時間が差し迫っていた。
いけない、遅刻してしまう。
おとなしくお留守番していてね。頭を撫でながらそう声をかけ、椅子に娘を座らせた。ほっそりとした手足が僅かに震えて私を送り出してくれる。朝の光を受けた身体は命の温もりを称えている。正面から覗き込むと、黒いビーズの目がきらりと光、そこに私の顔を映し出した。洗濯したばかりの青いドレスは、可愛らしいミコトによく似合っていた。
くすくす、くすくすくす。
あらあら、今日は上機嫌ね。
夕方には帰るから。
待っててね、みいちゃん。
了
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