第29話 夢見の朝


「幸助、朝よ」


近くで、俺を起こす母の声がした。


暗い瞼の裏から自分の部屋に景色が切り替わっていく。窓の外は嫌気が差すほどいつも通りの良い天気だ。それを見た途端、大きな溜息がでた。もうこうして目覚めるのは何度目のことだろうか。いつになったら俺はこの生活から抜け出せるのだろうか。



味噌汁の匂いを辿ってリビングへ向かうと、既に半分ほど朝食を食べていた父が、新聞から目を離すこと無く朝の挨拶を投げかけてきた。立派な人生を歩んできた父からの哀れむような表情を見ないですむなら、それに不都合はなかった。


「模試の結果はどうだったんだ」


続くいつもと同じ質問に、いつもと同じく「まあまあ」と答える。今度こそは違う答えを返そうとは思うものの、何故か俺の口からは同じ答えばかりが出てくる。



「でも幸助、昨日も遅くまで起きていたみたいだし、こんなに頑張ってるんだもの。今年こそは大学に受かるわよ。そうよね」


母の微笑みは何の悪意も感じられない。父と違い、三浪した俺を蔑んだり哀れんだりはしないが、その悪意の無さがいかに俺に重圧をかけてきているのか、母にはわからないだろう。


「パソコンばかりしてんじゃないだろうな。これ以上遊ばせておくわけにはいかんからな」


やっと新聞から目を離した父は、やはり、哀れむような表情を浮かべていた。


「してないよ、わかってるよ」と小さく答える。出勤前の父からの小言もいつも通りだった。今日こそ落ち着いて、イライラしないで乗り切るんだと心に言い聞かせながら「今度こそは合格してみせるよ」と何度目かの決意表明をする。



「あら、幸助。その台詞、もう何度目だっけ?」



だが、そこに投げ込まれた母の一言が俺の中の堤防を破壊していく。母は冗談のつもりなのだ、本気にしてはいけない。そう押さえ込もうとしても、身体には悪意と憎悪が一気に広がっていく。力を込めた右の拳が、俺を覗き込む母の頬へめがけて振り抜かれた。



ああ、だめだ。

もうこうなったら止まらない。

今日も、止まらない。


これはもう、自分であって自分ではない。

俺は、俺を諦めていた。



言葉とも悲鳴ともつかない妙な声をあげて、母は椅子から転げ落ちるように倒れ込んだ。いくら俺が非力なひきこもりだとしても、男の身体だ。老けて小さくなった母親を殴り倒すことくらいはできた。現に、母は殴られた頬を押さえながら怯えた表情で俺を見上げていた。



「お前、何してるんだ!」



怒りの叫びをあげて立ち上がった父に対しても俺の身体は反応する。同じ動き、同じ角度。幾度も繰り返して洗練され尽くした流れが、近づく父の腹へ躊躇なき蹴りを入れた。



苦痛に呻いて、膝をついた父に更なる一撃を加えようとしたところで「やめて、幸助、やめて」と情け無い声を上げながら母が俺に抱きついてくる。



その顔面にも二、三度肘を入れて振り払った。そして俺はそのままシンクへ向かう。朝食の準備をする際に使った調理器具が並ぶ中、洗ってもいない包丁を手に取り、そのまま俺に掴みかかろうとしている父に対して突進した。


ぶつかり、互いの動きが止まる。


数秒後、俺の腕を掴んだ父が徐々に力を失っていった。痛みに震え、青筋をたてて俺をみつめる父は、驚きの表情からいつも通りの哀れむような表情に変わり、そして崩れ落ちた。包丁を父の胸から引き抜くと、赤黒い血が綺麗なYシャツをじわじわと染めた。そして、哀れみを浮かべたままの顔面を真一文字に裂いてやった。



「何を、幸助…あんた…」母の震えた声で振り返る。



悲しみ、恐怖、驚き…座り込み、呆然としている母の表情からはまさにそんな感情がうねるような混乱が見て取れた。


なんにせよ、これから俺がすることは決まっている。腰砕けになり、逃げることもできない母の柔らかい肉に、簡単に刃は刺さった。勢いよく引き抜いて蹴り倒し、忌々しい言葉を吐き出す母の口元を思い切り踏みつけた。


「いつもいつも、うるせんだよ、馬鹿にしやがって!」


詰っているうちに、母も苦痛の表情を浮かべたまま動かなくなった。からん、と音を立てて、赤く染まった包丁が足元に落ち、次第に両手が震えだすのを感じた。



ああ、眠い。



俺は血溜まりの中の両親をそのまま放置し、自室のベッドに戻った。肉を刺した感触と、殴った骨の痛みと、生臭さを濁らせた味噌汁の匂いの中で、そっと目を閉じた。










「幸助、朝よ」


近くで、俺を起こす母の声がした。暗い瞼の裏から自分の部屋に景色が切り替わっていく。


「模試の結果はどうだったんだ」


リビングにいくと、新聞に目を向けたまま父が俺に声をかけた。そしてまた繰り返すのだ。今日も同じように、母の頬を殴り、父の腹を刺し、哀れみに満ちた顔を引き裂き、母を刺し、忌々しい言葉を吐き出す口元を踏みつける。そして自室に戻り、眠る、母が起こす。父が声をかける。父を殺し、母を殺し、自室で眠る。そしてまた、母に起こされる。



どうしてもこの迷宮から逃げ出すことは出来ないらしい。何度応対を変えようとしても、笑顔で家を出ようと自分に言い聞かせても、俺は定められたシナリオをただ繰り返している。そろそろ両親を殺すことにも慣れてきた。心は殆ど死んだも同然だった。



そして目を閉じると夢を見る。小さな俺がおどろおどろしい絵本を見ているのだ。若かりし両親が俺を抱き抱えて笑っている。


「ねえ、嘘をついたら閻魔様に舌を抜かれるって本当?」

「ええ、本当よ。それに悪いことをしたら地獄に落ちて、沢山痛いことされちゃうんだから」


母はわざと声を低めて言う。それが小さな俺には効果絶大だったようで、視界が滲んでいく。


「どうしよう。僕、沢山悪戯したから、閻魔様に怒られちゃうよ…」


すると、突然頭上から父の笑い声が降ってきた。


「じゃあ、もう二度としませんって謝ろうな。でも」


不意に父の顔から笑顔が消える。




「人を殺したり、自殺したりするのは絶対に駄目だ。そんなことをしてしまえば、一生その罪に囚われて死んでも成仏できなくなるからな」




俺を見下ろす両親の目は虚ろで、まるで死体のように光を失っていた。


…ああ、もうしません

…ごめんなさい


小さな俺の謝罪は、近くで聞こえた母の声でかき消された。





「幸助、朝よ」




窓の外は、今日も嫌気が差すほど良い天気で、俺は思わず深い溜息をついた。








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