第28話 黒犬

ドスン、という鈍い衝撃を身体全体に感じたとき、はっきりと女の目を見てしまった。女は苦痛に顔をゆがめ、恨めしそうな目で俺を見つめたまま宙に舞った。



黒いポルシェのエンジンが、獣のように猛り狂っている。たった今、俺は人を撥ねてしまった。反射的に急ブレーキを踏むと車体が軋む。タイヤは撥ね飛んだ女をもう一度轢き殺すギリギリの距離まですべり、ようやく車は止まった。恐る恐る路上に降り立つと、目の前はまさに惨状と呼ぶにふさわしいものとなっていた。 



銀色のシャーシが酷くゆがみ、自転車があめ細工のように変形して路面の先に転がっていた。自転車に乗った女は海岸沿いの松林から不意に飛び出して来たのだ。運転にミスがあったわけではないはずだが、この世の法律では車が悪いというのが一般的だ。



それに、決定的にまずいことがあった。



会社近くの居酒屋でほんのひと口とはいえ、飲酒してしまっていたということだ。弁護士という肩書きをもつ自分が、酒に酔って人を轢き殺したというのだから、もう話にもならない。これで俺は犯罪者に違いない。酒気帯び運転・自動車運転過失致死罪…こんなときだというのに、頭の中で六法がパラパラとめくられていく。



2目の前で倒れている血まみれの白いジャージを身に纏った女は、あらぬ方向に首をひしゃげていた。まだ若い。その目は腐った魚のそれのように冷たく見開かれている。心臓をえぐり取られるような苦しさと絶望感が襲ってきて、生きた心地がしなくなった。



「くそ、くそ、ちっくしょう!」



ぶつぶつと言いながら、俺は辺りを注意深く見まわした。誰かに目撃されていないかと、自分でも意外なほど冷静に周囲を観察した。夕日が水平線に沈み、空は徐々に暗くなっていく。入り江に雲がかかると闇は尚深くなり路上の外灯がやけに白々しく淡い光を投げかけている。



と、そのとき。

のそりと大きな黒い塊が女の傍に現れた。



艶のある短く黒い毛並みが外灯に輝いている。一瞬、化け物ではないかというばかげた考えが浮かんだが、目を凝らすとそれが大型犬だとわかった。はじめ、その犬は女の様子を探るように鼻を近づけていたが、もはや女が動かないことを知ると、クーン、クーンと悲しげな鳴き声を上げた。暫く悲しみを堪えるように女の死体に鼻をつけていたが、ぐりんと振り返ったその形相は、並の恐ろしさではなかった。


本来黒い目は血走って赤く濡れ、耳まで裂けた口から牙を剥いて、地の底から響くような声で唸った。




それが目に入ると瞬時に身体がバネのように反応した。頭で考えるよりも早く身体が動く。車に飛び乗ってドアを閉めた途端、黒い巨体が体当たりしてきた。ドスン、と言う鈍い音が再びボディに響く。


犬はドーベルマンのような獰猛さを秘めていたが、その巨体はドーベルマンをはるかに凌駕しているようにみえる。



ガチャガチャと必死でレバーを引き、アクセルを思い切り吹かす。なにがなんだかわからない。しかし、底知れぬ恐怖を感じた。とにかく逃げなければ罪状よりも命が危ない。


周囲に車通りはない。規定スピードの何倍もの速度で車体が唸りをあげて走り出す。酔いはとうの昔に醒めていた。ハンドルを強ばった腕でまっすぐに保ち、俺は何度も大きく深呼吸して、落ち着けと自分に言い聞かせた。



あの犬は、恐らく女の犬だ。



きっと自転車で散歩中だったのだろう。しかし、どうしてリードをつけていなかったんだ。あんなに大きな犬ならいくら躾けられていても人ひとり咬み殺すことも容易だろうに。わからない。とにかくあの犬は主人を殺されたと思ったんだ。そして俺を酷く恨んでいるのだろう。だから牙を剥いてきた。バックミラー越しに追ってくる犬の姿を見ながら思った。



やがて、車が海岸線の自動車専用道にでると、一気に車を加速させた。メーターが振り切れ、タイヤが低く唸る。ミラーに映る黒い点が次第に小さくなっていきやがて消えた。少しだけ、気が楽になる。




 このまま家までまっすぐ逃げてやろうと思ったが、もし車体に女の血がべったりついていたら…そんな状態で街を走るわけにはいかない。ひき逃げが発覚したとき、自転車の塗装がはがれて車に付着していたら、それだけでもひき逃げの証拠にはなる。もしこんなことがばれてしまったらと思い、身震いした。罪は更に重くなり、この世のすべてが一瞬にして消え去っていく。そんな絶望感が襲い来る。


海岸沿いの路肩にポルシェをゆっくりと停車させ、懸命に最良の策を考える。とにかくこの車を始末しなければならない。車を誰かに盗まれたとかなんとかいって…


ウインドウをあけると、ぬるい潮風が流れてくる。タバコをくわえて震える手で火をつけた。すーっとニコチンが頭の中を冷やしてまわるような感覚をおぼえながら、窓の外に目を向けて考えを巡らせていると、ふと、背後に不吉な気配を感じた。とっさにバックミラーに目をやり、思わず顔を引きつらせた。



先程の巨大な黒犬が車に向かって駆けてきている。既にだいぶ近い。なんという恐ろしいスタミナだ、まるで、化け物だ。開けたばかりのウインドウを閉め、再びポルシェを走らせようとしたが、途端にその犬は無類の跳躍をみせて、横から俺の喉笛に鋭い牙を突きたてた。




 


目を覚ますと、そこは白いベッドの上だった。


どうやら病院らしい。なんとか助かったようだ。しかし、ふと脇に目線を移すと、轢き殺したはずの女が椅子に座って眠っているのが目に入り心臓が飛び跳ねた。


死んでいるのか、いや、そんなはずはない。眠っているようだ。丁度、病室に入ってきた看護師が笑顔を浮かべて俺と眠った女を見る。




 「彼女は近野さんです。あなたのことをずいぶん心配していましたよ。自転車で海岸を走っているところを、黒い野犬に襲われそうになったそうです。あなたの車が野犬にぶつからなかったら、もしかしたら彼女がこの病院の患者だったかもしれない。それにしても随分うなされてましたけど、犬が死んでしまったのは、仕方ないことですよ」




看護師の説明に困惑しながら、咬まれたはずの喉元に手をやって、ハッとする。治療された痕はなく、皮膚は平坦なままで繋がっていた。


気付くと、俺が殺したはずの女は目を覚まし、俺の顔をみてにっこりと微笑んでいた。泣いていたのか、寝不足だったのか、彼女の美しい目は僅かに血走って赤くぬれていた。



 了


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