第26話 鬼子母神

副都心線の雑司ヶ谷駅に降り立つと、住宅街を分かつように敷かれた線路が目に入る。東に目をやると小高くなった路面の先に、ぼんやりと最先端の高層ビルが見える。都電の走る線路に隔てられて過去と現在が共存しているような景色だ。



その先にひとつのお堂がある。

祀られているご本尊は「鬼子母神」


この鬼子母神が安産・子育ての神様として信仰されているのにはこのような言い伝えがあるからである。


「鬼子母神はもともと500人(千人とも一万人とも言われる)の子供を産んでいた。しかし、とても狂暴な性格で幼児を捕まえては食べていたりしていたので周りから恐れられていた。お釈迦様はそんな鬼子母神を救うため、一番愛情を注いでいた末っ子を隠す。鬼子母神は泣きながら世界を7周して探すも見つからなかった。

お釈迦様はそんな鬼子母神に「一人の子供を失う事がどれだけ苦しいことかわかったでしょう。あなたが子供を食べる時、その親の気持ちを考えなさい」と言うと、鬼子母神は今までの過ちを認め、安産・子育ての神になることを誓って神となり、人々に信仰されるようになったのだという。





おばあちゃんは箪笥の上にいた。


両親の寝室の、昔は親子三人で布団を並べていた部屋の白い箪笥の上には、お母さん方の祖母の写真が飾ってある。毎朝コップに入れた水を備えるのが習慣で、おそらくは仏壇の代わりなのかもしれない。



おばあちゃんとはいっても、私は会ったことがない。お母さんが二十歳になった頃に病気で亡くなったそうだ。


だから写真(遺影というのをお母さんはひどく嫌がる)のなかで微笑むおばあちゃんは、まだ五十代に差し掛かる前だというので、世間一般の「おばあちゃん」よりはずっと若いと思う。


朝と夜。


お母さんは畳の上に座って、おばあちゃんの写真に向かって手を合わせる。お経のようなものをずっと唱えている。とても早口なので聞き取れない。お葬式でお坊さんが唱えるお経とは、違うような気がする。




 お母さんは人の身代わりになるのが好きだ。私が中学生の頃の、まさに高校受験本番の日。家に帰ると頭に冷却シートを貼り付けたお母さんがいた。


「きっとあなたの代わりにお母さんが熱を出したのよ。だからあなたは体調を崩さずに受験できたの」


そう言われて、よくわからないまま「そうかもしれない」と思って頷いた。病気や怪我、悲しいこと、不幸なこと。お母さんの身に起こるそれらのことはすべて私が受けるべきだったものを、代わりにお母さんが受けているらしい。そしてお母さんが受けきれなかった分は、私に返ってくるので、私の身にもそれらは起こりうるという。


「お母さんの祈りが足りないからね。もっとちゃんとお祈りするからね」


私が落ち込んでいる時、お母さんは私以上に悲しそうな顔をして、頭を撫でてくれながら謝るのだった。



「今年の冬は風邪をひかなかったなあ」


三月も半ばを過ぎて暖かくなってきた日。

ふとそう思ってお母さんに話した。


毎年、二月の寒い時に体調を崩してマスクが手放せなくなる。熱は出ないのだが、鼻と喉の調子が悪くなるのだ。しかし珍しく無事に過ごせたので少しだけ嬉しかった。


「でもお母さんは調子が悪かったわ」

「あ、そっか」


お母さんは一月の終わり頃から、旅行に行く前日からお腹をこわして楽しめなかったり、足の小指を骨折したり、車に乗って遠出をしたらひどい車酔いをして帰ってきてからずいぶんと寝込んだりと散々だった。


「きっとあなたが風邪をひく代わりにお母さんがこの身に受けたのね」


いつもならば聞き流してきた言葉だった。初めて言われた時はなんとも思わなかったが、何度も言われると気も滅入ってくる。けれど反論するのもおかしいと思い、言い返すことはなかった。



けれども、よく分からないがかちんときた。



「そういうのもうやめてくれる?」

「え」

「私の不幸がお母さんにいくわけないでしょ。風邪をひかなかったのは体調管理をちゃんとしてたからだし。そもそも風邪をひくかわりにあれだけのことが起きるとかおかしいじゃん」


そもそも、と付け足す。


「お母さんがどうして私の不幸の身代わりをできるの。神様でもあるまいし」




 深夜。




喉が異様に乾いて、一階の台所に行くと居間の電気がついていて驚いた。誰かと思えばお父さんだ。


「どうしたの、寝ないの?」


問いかけると、困った顔をして「部屋に入れない」と言った。


「箪笥に向かってずっと手を合わせてるんだよ、母さん」

「……え?」


何も飲まずに、両親の寝室に向かう。扉に耳をくっつけると、お母さんの声が聞こえてくる。




「お母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さん」




 

お母さんは昔、とても身体が弱かったらしい。けれども、おばあちゃんが病気で亡くなった頃から、人並みに健康な体になったそうだ。


「本当はきっと、病気で死ぬのはお母さんだったのよ」


とても小さい頃、おばあちゃんのお墓参りにいった日、そんなことを言っていた。その意味を、今になってやっと理解した。


おばあちゃんはお母さんの身代わりになったのだと、お母さんはきっとそう思っている。母親とはそうあるべきと信じて、だから、お母さんもそうなろうとしていた。



私は、お母さんの全てを否定してしまったのだ。



おばあちゃんはお母さんの神様だった。

そしてお母さんも神様になりたかった。


扉の向こうの、だんだんと、聞き取れなくなるくらいに小さくなる声を聞きながら、途方に暮れる。扉を開けることも、立ち去ることもできない。お母さんを肯定して神様と思うこともきっと私にはできない。



もうきっと普通の母娘には戻れないのだと、それだけは分かっていた。


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