第23話 赤子の声

陽射しの強さは衰えを見せないものの、夜には心地よい風が吹くようになった。日が少しずつ短くなり、夜には涼しい風が吹くため、網戸をつけていれば寝苦しいということはない。


しかし涼しい風にあてられてゆっくり眠る余裕は、私には無かった。受験シーズンの到来だ。ほぼ毎日深夜まで細かい文字の並んだテキストや小難しい数列と格闘しなければならない。しかし最近になって夜泣きが聞こえてくるようになった。


近くに大学はあるもののマンション周辺はろくに街灯もなく、最寄りのコンビニまでは徒歩二十分はかかるような田舎の静けさがある。車通りも少ないためその赤子の声ははっきりと聞こえた。


以前エレベーターの中で夜泣きの主を見かけたことがある。深田ユキちゃん、というらしい。深田さんが買い物から帰ってきたところに遭遇したときに名前は聞いたが実際このマンションのどこに住んでいるのか全く知らない。近所付き合いなんてその程度だ。


夜泣きとは総じてうるさいものだといわれているが、私には彼女の夜泣きがうるさいとは思えなかった。深夜にええん、ええんと聞こえてきても、やかましいというより心地よい音楽に聞こえてくる。駅には近いものの田舎には変わりない。


そんなひっそりとした夜中、どこの部屋からかユキちゃんの泣き声が静寂と闇の中を幾つもの壁を反射して私の部屋まで届いてくる。そう考えるとなんだか風情のあるものに感じられた。



しかし、そのように勝手に風情を感じて赤子の夜泣きを楽しんでいたのは私だけのようで、深田さんはマンションで会う度にげっそりとしていく。


育児ノイローゼというものだろうか。


軽く礼をすると、微笑と共に挨拶を返してくれたが目元の隈は隠しようがないほど深く刻まれていた。ユキちゃんの夜泣きが始まる前には無かったはずだ。どうやら相当参っているように見えた。やはり原因は夜泣きだろうか。


「お体は大丈夫ですか」そう話しかけようかと迷ったが、結局それ以上の会話はせずに別れた。マンションでの人間関係など本当に希薄なものだ。



たまに夜泣きの無い日もあった。そんな日は、きっと母親もほっとしていることだろう。私としても毎日続く夜泣きに慣れて飽きてしまうのは勿体無く思っていたので、こうして休みが入るのは有難かった。


秋が夏を追いやり、夜泣きの無い日には様々な虫の声が聞こえてくるようになった。虫に混じって蛙の鳴き声を聞くこともあった。近くの川からやってきたのだろうか。蛙の声をきくと、昔自分がしでかした悪行を思い出す。




小学生の頃、川の近くに作られた公園で草の根に鳴いていた蛙を踏み潰したことがあった。何故そんなことをしてしまったのか。それは足元を跳ねて、げこげこと間の抜けた鳴き声をあげる蛙が、ふと無様だと感じられたからだ。


自分より格下で意味のない存在に思えたからだ。そして、こんな無様なものは殺してもいいのではないか。いや、殺してみたい…そんな考えが浮かんだのだ。命の道徳などは微塵も脳裏によぎらず、そのまま右足で踏みつけた。


蛙は、巨人の足に気付くこともなく、逃げもせずに暢気のんきに鳴いているところを潰された。


暢気な鳴き声が、一瞬嫌な断末魔に変わっただけで、期待していたような満足感は得られなかった。ただ、蛙の断末魔とぶにゅっという感覚だけが残った。



今にして思えば、なんにでも好奇心を抱く子供の性が私にそうさせたのだろうが、当時はその後突如訪れた罪悪感に身を潰された。それ以来、勝手にも蛙が苦手になってしまったのだった。



玄米茶を飲みながら古代ギリシアのアテネ民主主義の変遷を必死に暗記していると、また夜泣きの音が聞こえてきた。今日も良い音をしている。無理矢理詰め込んだギリシア人の名前で圧迫されていた私の頭が、すっきりと冷えていく。


いつ聞いてもこの音は神秘的だ。


普段なら鋭く、甲高く聞こえる赤子の泣き声が、この状況だと柔らかくなって耳に優しく入ってくる。このことを予備校にいる親しい友人に話してみたが、まるで理解されなかった。それどころか勉強のしすぎでおかしくなったのではと心配すらされた。


もしかすると、誰にも理解してもらえないのかもしれない。しかし、日本人は風鈴の音を聞いて涼むことの出来る唯一の民族と聞くから、これも個性なのだと思う。



暫く、ギリシアを放棄して考えていると、ふと夜泣きの音が止んだ。そしてクロスフェード。同時に虫や蛙の音が良く聞こえてきた。そういえば虫の音で和むことが出来るのも日本人だけだと聞いたことがある。日本人は不思議な耳をしているのかもしれない。



数分も立たぬうちに、ええん、ええん…とまた夜泣きが始まった。時計を見れば既に深夜の三時。恐らくこのマンションの住人の大半が眠っている時間帯だ。


そんな中、深い睡眠を取れないままに夜中に何度も起こされるのだから、深田さんはたまらないだろう。世の母親達は、毎日夜泣きをされても子供への愛情が続くのだから凄い。


先日見かけたときには、深田さんの風貌は更に酷いものとなっていた。そして苦笑を浮かべながら「最近、この子の夜泣きがうるさくありませんか?」と聞いてきた。偶然エレベーターで一緒になったときだったから、気まずい沈黙に耐えられなかったのだろう。そんなこと無いですよ。私は全然聞こえませんけど。と軽く嘘をついて受け流してそそくさと退散した。


日々、子育てに奮闘している深田さんには失礼だが、その時の彼女の風貌は、隈が濃くなっただけでなく頬もこけて顔色が悪く、ゾンビといっても良い程だった。


苦笑が苦笑になりきれず、虚ろな表情に見える。私は深田さんのことを詳しくは知らないが、あの姿を見れば誰だって心配をするだろう。深田さんは神経質な方なのかもしれない。私が赤子だったとき、小児科勤務のあった私の母は、成長過程と割り切っていたという。



ええん、ええん、と少し夜泣きの音が強くなったような気がした。これでもう何回目になるのだろうか。今日はいつもと比べて特に夜泣きの回数が多く、激しいようだった。ふと、先日見た深田さんの顔を思い出す。



昨日、一昨日も夜泣きはあった。



果たして、彼女は今どんな表情で自分の娘を見ているのだろうか。彼女は二日前よりずっとげっそりして、まるで幽鬼か何かのように自分の娘が眠るベッドに向かうのだろうか。そして…




ええん、ええん

ええん、ええん、グギェッ……




昔、聞いた蛙の断末魔の音のような声を最後に、夜泣きはそれから一切聞こえなくなった。代わりに何事もなかったかのように、虫の声が私の部屋に充満した。




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