第17話 鏡
12月18日 木曜日
7時25分
俺は妙な気分だった。洗面台で歯を磨きながら向かい合った鏡に写った自分自身から視線を感じた。いや…俺が見てるから向こうも見てるんだ。当たり前だ。考えてみれば当たり前なんだが、何故今日はこうも気になるのだろう。
・・・
15時40分
大学の講義の合間に友人と連れ立ってトイレに入った。手を洗っているとまた、朝と同じ感覚がした。薄ら寒い気持ちになり、隣で髪をいじっている友人に話しかけた。
「なあ俺さ、鏡の自分に見られているような気がするんだよ」
「えっ、なにその究極のナルシスト」
「いや…そうじゃなくてさ…なんか視線を感じるっていうかさ」
ストレスで気が変になってんじゃねえの、と友人はいい加減な言葉を返す。ストレスはないわけではないが。結局気にしても仕方ないと鏡から目を逸らした。
・・・
20時15分
サークルの仲間との飲み会。いつも通り皆大いに飲み、いつも通り皆揃って前後不覚になっていった。途中トイレに立ったが、今朝からのことは酔いのせいですっかり頭から飛んでいた。わずかにふらふらしながら手を洗っていると、またあの視線を感じた。しかも今度は明確にこちらを見ていると感じられるほど強烈なものだった。
酔いが徐々に醒めて行き、隙間に入り込むように恐怖が増した。あまり鏡を見ないように気をつけていたが、思い切って鏡にまっすぐ顔を向けてみた。その瞬間、バシッと大きな音がして、同時に俺は何かに押し倒されるように後ろに倒れ、硬い床に後頭部をしたたかにぶつけてしまった。
その音を聞きつけて店員が走ってくる。
霞む目で見上げると派手にひび割れた鏡が見えた。
・・・
翌日、11時30分
昨夜は家に帰ってから泥のように眠っていた。怪我は大したことはなく、少したんこぶができた程度で済んだ。今日の講義は午後から。二日酔いの頭を押さえてベッドから這い上がり、いつものように洗面台の前に立つ。なんとなく鏡をみて、その違和感に気付く。すぐには何が起きているのか分からなかったが事態が飲み込めた瞬間、二日酔いなど吹き飛んでしまった。
そこには何も写ってはいなかったのだ。
俺の存在などないかのように、鏡は後ろの壁を映し出していた。その理屈など考えても分からず、俺は寝ぼけているのだろうと無理矢理自分に納得させて、ろくに顔も洗わずに家を出たのだった。
・・・
12時45分
大学の廊下で友人とすれ違い際に「よ、元気?」と呼びかけると「は?さっき会ったじゃん」と意味不明なことをいわれた。
・・・
17時15分
退屈な講義を終えると、サークル仲間から昨日の話をせがまれた。誰にやられたのかと聞かれたが、分かるはずもない。俺は思い切って今朝のことをみんなに話してみることにした。以下、サークルメンバーの反応である。
「マジで!お前死んでんじゃないの?」
「悪霊に取り憑かれてるとか?」
「ありえないって!ネタに決まってんじゃん!」
いや、まあ、うん。そうだよな。そう思うよな。幽霊がどうのこうのといっているやつもマジで言ってるわけではないだろう。やっぱり気にしすぎなんだ…しかしそんな中でずっと怪訝な顔をしていたアカネがとんでもないことを言い出した。
「あれ?てことは、あんた午前中は家にいたってこと?今朝、私レポート出すために9時くらいに大学にきてたんだけど、正門のところで10分くらい喋ったよ」
それを聞いて皆また一斉に騒ぎ出す。アカネはバカな冗談などいうタイプではない。混乱する頭に飛び込んできたのは、誰かが発した「ドッペルゲンガー」という言葉だった。
ドッペルゲンガー?
それってあれだよな。自分と同じ顔したやつで、そいつに会うと死ぬとか…はは、まさか。そんなの都市伝説の存在じゃないか。笑い話の流れで今日もそのメンバーで呑みに繰り出すことにした。
・・・
23時20分
今日は早めに解散したが、乗る電車を間違えたせいで帰ってくるのが遅くなってしまった。寝る前にトイレに行き、その後もう一度鏡を見直した。
やっぱり何も写らない。
ぼんやりとそれを見つめていると、突然誰かに後頭部をつかまれ、顔面を鏡に押し付けられた。妙な感覚だった。硬いガラスに思い切り顔をぶつければ尋常ではない痛みに苦しむはずだが、痛みはなく、顔には何か膜を通るようなぬるりとした感覚がした。現状を把握しきる前に意識は朦朧としていった。
・・・
23時47分
気付くと俺は俺を見つめていた。鏡にやっと俺が戻ってきたらしい。俺が頭を振ると鏡の俺も頭を振る。そうだ、こうでなくちゃいけない。最近の妙な現象はきっと疲れていたか酔っ払って幻でもみていたに違いない。
俺は当たり前のようにそこにいる。それにしても鏡の仕組みとはどうなっているんだろうか。こんなに綺麗にモノを映し出すためには、やはり相当な技術とかで作られているのだろうか。普段気にしたこともない鏡だったが、少し考えてみれば不思議なものだった。
…しかし、平然と俺を写し続ける鏡をみていると、やはりここ数日の現象は妙だった。俺がいないはずの時間に俺と話したというアカネ。鏡に写る俺がいなくなったのは、居酒屋で誰かにやられた後だ。
もしかして、鏡の中の俺が抜け出して、ドッペルゲンガーのようにこのあたりを歩き回っていたんじゃないか…
そこまで考えて俺は思わず噴き出した。あほらしい。今日はあまり呑んでいなかったつもりだけどしっかり酔っ払っているらしい。そんなことがあるわけがない。くくっと笑いながらも、妙に真実味のあるその説にどこかで恐怖している自分がいることにも気付いた。
バカか。鏡が怖いなんてガキじゃあるまいし、そんなことあるわけねえだろう。鏡の向こうでは、俺が同じように笑っている。
俺が近づくと俺も近づく。
笑う。笑う。
うつむく。うつむく。
手にハンマーを持つ。持つ。
振り上げる。振り上げて。
あれ、俺、なんで
ハンマーなんか持ってるんだっけ。
打ち付けられる。
その一瞬全身が割かれる様な痛みを感じたが、それもほんの一瞬だった。気を失う直前にみたのは崩れる鏡の向こう側で、利き手とは逆の手でハンマーを掴み、ニタニタ笑う俺の姿だった。
なんだ、やっぱりお前だったのか。
最後にそう思った。
了
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