第18話 母親のクッキー

家の中は息苦しい。


自分に向かって投げつけられたガラスのコップは足元で派手な音を立てて弾け、怒鳴り声は脳を揺らした。自分の口から出てくる小さな謝罪の言葉はとても機械的で意味のあるものではなかったが、半狂乱の母に届くことはない。


「あんたなんか産むんじゃなかった!」


罵声と共に投げつけられた刃物は急所の僅か左を逸れて壁にぶつかって落ちた。涙は出なかった。泣けば余計に悪化することを十分に学んでいた。耐えていればいつかは終わる。最後に泣いたのがいつだったか。それも記憶になかった。


死んでしまえばいいのに。


前髪の隙間から母の皮をかぶった怪物を見上げてそう思った。



その日はそのまま家から追い出されたが、それにも随分昔に慣れていた。いつまでも玄関先にいるとまた怒られるため、いつも近くの神社にもぐりこんで夜を明かすことにしている。


古びた神社の境内は、年末や祭りの時以外は整備されている様子もなく、人も滅多に立ち寄らない。草が生えたいように生えていて、祠を守るように立てられた社殿の屋根は腐食して雨漏りがするが、それでも私にとっては大切な隠れ家だった。


携帯には程ほどの充電も残っているし、鍵もある。ポケットには五百円玉も入っていて空腹も凌げそうだ。携帯には友人からのメッセージがいくつか届いていたが開く気にはなれなかった。日に日に増える傷や痣を長袖で隠すのも難しくなり、しばらく学校にも行けていない。学校には体調不良と連絡してあるが、そろそろ限界だろうか。



じわじわと痛む身体を休めようと、ざらざらとした社殿の床に寝転がる。頭を巡るのは母親のことばかりだ。今日こそ殺されるのではないかと思ったがどうやらまた運よく生き長らえたようだった。


物心ついた時から父は居なかった。


母曰く「人でなし」だという。そんな人でなしと別れたあと、母は女手一つで私を育ててくれた。かつてはとても優しく、父親のぶんも自分が担おうとして家事も仕事もたくさんやっていた。


学校から帰ってくると家に母は居なかったが、その代わりにテーブルの上に手作りのクッキーが置かれていた。甘い甘い味が今でも思い出せる。私の大好物だった。


しかし、いつから狂い始めてしまったのか。最初の頃は殴ったあとに泣きながら謝罪された。「もうしない、もう傷つけないから離れないで」と抱きしめられたものだが、このところそれすらもなくなった。


お互いに麻痺しているのだと思う。


いつかは昔の母に戻ってくれる…その期待を今まで捨てずにいたものの、一向にその兆しは見えてこない。とうにあの家は地獄でしかなかった。



ごろりと寝返りを打つと、境内の祠が横倒しになって見えた。両脇には小さな狐の置物が鎮座している。苔に覆われところどころが欠けた狐は妙に捻じ曲がった笑いを浮かべてこちら側を見つめていた。


じっと見つめていると、改めて今の現状が情けなく感じた。神様なんてものがこの世に存在するのなら、今の私は何だ。


産みの親に殴られ蹴られ、父親にも見捨てられ、汚くなって学校にも行けない。


母に殺される日をこんなところに隠れながら待っている。誰も救ってはくれない。警察に届け出たところで自分が暮らしていけなくなるだけだ。それならいっそ、自分が死ぬか、それとも…



「死んでしまえばいいのに」



なんとなく口に出して呟いてみると、身体がふつふつと煮えるような感覚がした。胸から喉にかけて嫌悪感が込み上げてきたとき、我慢できなくなって身を起こした。


祠を見つめていると耳鳴りがする。両脇の狐が尚も気味悪く笑っている。いつの間にか自分は社殿の床に正座して、ひたすらに母の死を願っていた。馬鹿馬鹿しいことだと心の中ではわかっていたが、我慢が出来なくなっていた。


居なくなって欲しい。

死んで欲しい。

あんな母親は要らない。

あんなやつ、殺してください。


呪うように語り掛ける心の声はいつしか呟きになり、しっかりとした話し声となっていた。いつぶりかの涙が頬を伝っていることに気付いたときには、既に朝を迎えていた。


早く帰って朝食の準備をしなくては、また殴られる回数が増えるに違いない。急いで帰ろうにも痺れきって痛む足を動かすまでには三十分近く必要だった。一体、夜通し何をしているんだろうかと自分が情けなくなった。




境内を抜けて数分。



自宅に戻ると扉の前に母親が立っているのが見えた。皮膚が粟立つが、逃れようが無い。諦めて近づくと、突然母が自分の名前を呼ぶのが聞こえて驚いて顔をあげた。


母親に名前を呼ばれるのは随分久しい。あんた、とか、お前、と呼ばれることに慣れきっていたせいで面食らう。


「今までどこにいってたの!」と肩を掴まれるがその力は決して攻撃的ではなく、表情と声は心から心配していた。


こんな母をみるのは何年ぶりか。騙されているのではないかとすら思えてきて身を強張らせていると「どうしたの」と母が顔を覗きこんできた。唇が震え、幼子のようにつたない声で「だいじょうぶ」と告げると、一瞬の後、母にそっと抱きしめられた。


耳元で聞こえた「無事でよかった」という言葉も、初夏の夜風に冷え切った身体を包む母の温もりも、全てが信じられなかった。


「さあ、入って。早くご飯食べないと学校に遅れるでしょう」優しく家に促されて、おずおずと足を踏み入れる。家の中は変わらず薄暗かったが、漂う朝食の香りが心地よかった。




数日が過ぎた。




相も変わらず母は優しい。風邪気味だからと嘘をついて学校に行こうとしない私に「いじめられてはいないか、体調が悪いなら病院へ行くか」と話しかけてきた。


その提案は断ったが、ひとつだけ、幻でも夢でもいいからと母に頼みごとをした。


クッキーが食べたい。


それを聞くと、母はにっこりと微笑んで承諾し、1時間後には目の前に、あの甘い甘い香りのクッキーが十枚ほど用意されていた。母のこの異常な変化を私はどう片付けたら良いのか未だに迷っていたが、最終的に、あの神社のおかげで、非道で残酷な怪物であった母が死に、かつての母が戻ってきたのだと、そんな幻想めいた答えを結論付けた。


そうでなければ、心に渦巻く騙されているのではという疑惑は拭えそうになかったからだ。そして、この結論は自分を幸せな気分に導いてくれていることにも気付いていた。この幸せが続くのなら、多少の代償は仕方ない。



ぎしぎしと動く指はクッキーをうまく掴めなかった。仕方なく両手で不器用に持ち上げて、口にいれると、硬い部分に当たった歯が、がりっと音をたてて抜け落ち、吹き出た血がクッキーを湿らせた。


それでも私はそのままぐちゃぐちゃと顎を動かした。血だらけのクッキーを飲み下そうとすると、抜け落ちた歯が飲み込むのを妨げた。


何度も咳き込み、喉の奥からようやく歯を吐き出した。粘膜がまとわりついて赤黒く光る歯が、皿に当たってカツンと撥ねた。自分の体がゆっくりと死んでいく。腐り落ちていく。


私は母を一人殺したのだ。

当然の報いなのだろう。


それでも死ぬ間際に与えられたこの甘い幸せをかみ締めることを諦めなかった。母の作るクッキーは、本当に美味しい。


私の大好物だ。


この幸せができるだけ長く続くように、じんわりと赤く滲む景色を遮断するように目を閉じて静かに願っていた。




 了


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