第7話 釣果


私が、生まれてはじめて釣りを体験したのは十歳の夏だった。父に連れられ、初めて県外の海水浴場にいった時である。


地元から車で数時間。はじめてみる水平線。綺麗な波しぶき。裸足に食い込む砂の感触。すべてが新鮮だった。


たまたま遊びに来ていた、大学生達がモリで魚を捕ったり、岩からの飛び込みをしたり、潜ってウニを拾ったりしていた。私が見ていると、誘いかけて一緒に遊んでくれたのが心に残っている。(今では海産物の保護や安全の問題でそれはできなくなってしまっているらしい)



夕方、彼女らは帰っていき、父も浮き輪や水着などを車に詰め込み帰りの準備をはじめた。


余韻にひたりながら海辺を歩いていた私は、駐車場の裏の水辺で一人、釣りをしているおじさんを見つけた。釣りが何であるかは知っていたと思う。

じっとその様子をみていると、それに気付いたおじさんが「おう、やってみるか嬢ちゃん」 と声をかけてくれた。


喜び勇んで、その時の自分の手にはやや太い釣り竿を握りしめた。そうして海に向き直った途端、僅かにぴくりと竿が振れた。


かかった!とリールを巻き上げようとすると、


「嬢ちゃん早いよ、魚がかかってから巻くんだ」


おじさんはそう言って笑ったが、必死に糸をひく私を止めはしなかった。



果たして砂場まで引き上げられた糸の先には、小さなタコがくっついていた。


「へえ、おじさんにはわからなかったよ、うまいなあ!」


賞賛の声が心地よかった。私の人生初の獲物は、小さな茶色のタコとなった。


なんとなく来たから糸を垂らしていただけで格別釣れやすいスポットではないという。しかしその後の私の釣果は上々だった。小さな魚とはいえ、入れ食い状態でどんどん釣れた。


荷物を積み終えた父が、それに気付いて慌てて竿を返すようにいったが、あと一回だけと駄々をこねて餌のついた糸を海に投げ込んだ。後ろで父が頭をさげていたが、「うまいもんだ」と豪快におじさんは笑っていた。最後の獲物は、これまで以上に激しく竿をびくびくと震わせた。


「おっ、いい掛かりだぞ、頑張れ!」


と後ろから声をかけられ、私は必死でリールを巻いた。


見えてきたのは、暗い群青色の魚だった。なんの魚なのかは分からないが、これまで釣ったものよりも遙かに大きい…ように見えただけだった。


魚自体はこれまで釣り上げたものと変わらなかった。


大きく見えていたのは、黒い手が、魚を包み込むように掴んでいたからだった。魚が近付くにつれ海面から出た腕はどんどん伸びてきた。まるで渡さないとでもいうように。


「なんだ意外とちっけえなあ。ほんでも、うまいぞ嬢ちゃん」


上機嫌のおじさんも驚くばかりの父も、その手には気付いていなかった。



そうか、これ私だけのやつか。



この頃の私は、他の人には見えない物が稀にみえることをわかり始めていた時期だった。糸を引き上げ、魚を掴もうとした時にようやくその黒い手は海に戻っていった。波しぶき一つ、たてはしなかった。



釣り上げた魚は、おじさんの好意でそのまま持ち帰り、親戚の家でさばいてもらって皆で食べた。


種類のわからない数匹の小さな魚と、ナマコと、タコ。あまり美味しかったという記憶はないが、自分の初めての獲物だという高揚感が、箸を進めさせた。



あの黒い手がつかんでいた魚も、ぺろりと平らげた。



それ以来、私は電車の線路から、壁の隙間から、暗い穴から、誘う「手」をよく目にすることになった。



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