第2話 蝉の声
耳障りな蝉の羽音や声は、あの女を思い出させた。
去年入社したあの女。
仕事ぶりは確かに優秀だった。だが、職場での嫌われようときたら。誰に対しても高圧的。時には上司の仕事ぶりに大声でケチをつけたこともある。
入社してすぐにあげた営業成績を褒められた時から、自分が誰よりも偉いのだと言わんばかりの態度でふるまっていたのだ。その営業成績ですら、実態は退職前の優秀な先輩から引き継ぎを受けただけの、とっくに地盤の固まっていた仕事だった。
自分が全てで、人の詮索や悪口を言うことしか能がない。
最初はこんな人もいるからと、大目に見ていた自分が馬鹿だった。大切な人を貶されたとき、とうとう堪忍袋の尾が切れた。それ以来、呪うような気持ちであいつの影を睨みつける日々が続いていた。
でも、これで終わる。
目の前にあるのは白い紙で出来た服をかさばるほど着込んだ巨大な岩。それが口をかぱっとあけて待ち構えている。
消えてくれ、目の前から。お前の声なんて二度と聞きたくない。私の平穏な日常を返せ、返せ、返せ!
頭の中で怒りの声が破裂しそうだ。
恨みと怒りと願いの篭ったヒトガタを手に、ゆっくりとその口に滑りこんだ。
人々の黒いものが溜まった闇の中。遠くから蝉の鳴き声が聞こえてくる。それは知りもしない相手のことを詰っていい気になっているあいつの声によく似ていた。
断ち切ろう。
汚らわしい思い出の全てを、石の割れ目から覗く闇に捨てていくのだ。
ぐっと腕に力をこめて、口のような形をした丸い穴から這い出し、は、とついた息は心なしか清々しい。憑き物が落ちたような身軽さだ。
此処に来てよかった。
古都の片隅にある、断ち切り、繋ぐ為の場所。白く大きく太った石に頼るしかないほど、あいつとの縁を切りたかった。
その時スマホが震えた。上司からの電話だ。
あの女が体調を崩して入院したから、金曜の会議に代わりに出席して欲しいとのことだった。代わりも何も、あれは本来私の仕事だ。あいつが奪った。だから奪い返してやっただけだ。
手にしていたヒトガタに糊をつけて適当に貼り付けた。
こうして岩はぶくぶく太っていくのかと、他人事のように感じながらその場を離れた。
いつの間にか蝉の声は聞こえない。じりじりと肌を焼いていた陽も翳っている。道路が湿る、むわっとした臭いが鼻にまとわりついてきた。雨に降られる前に帰ろうと、駅へ向かう足取りは軽かった。
翌週。あの女の容態は一向によくならない。
「このまま辞めればいいのに」
社内の誰もが口に出さずともそう思っている。商談中、あの人とはあまり仕事をしたくなくてね、と囁いた相手の営業マンの目も、黒く濁っていた。仕事は順調に進み、相手方との契約もうまく取り付けた。順風満帆。あとは、あいつさえ。
次の営業先へ向かう為に会社から出ると、灼熱の日差しが一気に肌を痛めつけた。
ふと、踏み出した足の先に、ころりと蝉が転がっているのを見つけた。ジ、ジと死に際の声を発しながら小さな黒目が私を見上げている。
無様だな。
私の足は躊躇うことなく蝉を踏みつけた。ギャリ、と嫌な音がした。お気に入りの靴だったけど、まあいいか。
数日後、あの女は会社を辞めた。女の両親が連絡をよこしたようだが、電話を受けた上司も彼女の容態は、と聞きすらしない。社員も心配そうな顔をつくりながらも口の端は正直に持ち上がっている。
社内にやけに大きく蝉の声が響く日の事である。
了
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