柔らかな怪異
伊月 杏
第1話 美容師の手
いつもお世話になっている美容院のオーナーからきいた話である。
開業してから八年が経つその店は、今でこそ地域に馴染む決まったメンバーで運営されているが、開業後しばらくはスタッフの出入りが非常に激しかったという。人が出て行く主たる理由は、いわゆる「心霊現象」だった。
開業して半年が経ったころ、オープニングメンバーだった新人美容師のサエさんが、交通事故で亡くなってしまった。
冬の朝、出勤途中のことだった。
オーナーは当時の従業員と共に彼女の葬式に参列した。サエさんは常に明るく前向きで向上心があった。新人でありながら物腰柔らかく可愛らしい人間性と、話し上手、聞き上手な人気者。業務が終わると、カットウィッグで練習を欠かさなかった。
将来有望な人材だったということも、オーナーの悲しみに拍車をかけた。帰りの電車では、湧き上がる感情を抑えきれず、ホームのベンチで人目を憚らずにさめざめと泣いた。
帰りの道中で買ったペットボトルで紅潮した頬と泣き腫らした目を冷やしながら、帰宅したのは随分と遅い時間だった。家ではオーナーの一人娘であり、当時五歳のアイちゃんが、寝ぼけ眼で待っていた。
急いでご飯作るねと声をかけ、自室で普段着に着替えていると、リビングから「なあに、なあに」とアイちゃんが言っているのが聞こえたという。
絵本を読んでいるのか、ままごとでもしているのだろうと最初は気に留めなかったが、アイちゃんの「なあに、なあに」は何度も続き、その声色が怒りを帯びてきた。
さすがに気になりリビングを覗き込むと、人形をひざに置いてソファーに座っていたアイちゃんが、自分の頭を押さえながら「なあに」と繰り返している。
どうしたの、と声をかけると返ってきた答えは「誰かが、アイのことなでなでするの」
何言ってるの、と近づいて娘の頭をみたオーナーは言葉を失ってしまった。
何かが、髪を梳いている。恐らくは指。
そこには何もないのに、アイの柔らかい髪に五本の筋が上から下へ流れては消える。それは美容師が客の髪を梳いているような滑らかな動きだった。
この訳のわからない状況に、オーナーは恐ろしいという感情とともに、殆ど確信を持って、ここにサエさんが“居る”と思ったという。
「そりゃ最初は怖かったけど。サエちゃんとはプライベートでも仲が良かったし、娘のことも可愛がってくれていたから…きっと、最後に挨拶にきてくれたんだと思ってるの」
アイちゃんを撫でていた「何か」はそれっきり現れなかった。
一方で、職場である美容院では、まことしやかに怪談話が囁かれるようになった。亡くなったサエさんの幽霊が、夕方頃になると店の奥でカットの練習をしている。まだ未練があって業務中にお客さんの髪を触ることがある…というものだった。
オーナーは、サエさんのことが噂話の種になっていることに些か腹を立てたが、実際それは確かに起こっていたのだという。
業務終了後、最後に店の戸締りをしていると、どこからかカシャカシャと鋏をいじる音がする。
器材を取りに少し離れた際に、お客さんから「ひゃっ」と声が上がり、聞いてみると誰かが触った気がした、という訴えがあったそうである。
不気味がって当時のオープニングメンバーは殆ど辞めてしまい、結局メンバーの総入れ替えをしなければならなかった。
時間とともに不思議な物音は減ったが、冬になりサエさんの命日が近づいてくると、カシャリ、カシャリと店内で小気味よい鋏の音が増えるような気がする。
オーナーは毎年この時期になると、可愛らしい小さな花束を買ってきて、バックヤードのカット台の近くに飾っておくようにしているという。
了
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