爪を立てる
夏真っ盛りの大地は陽炎が踊っている。クーラーの効いた車内から炎天下の駐車場、そしてうっすらと冷えた病院内。温度差にくらくらしそうだった。
病室には何もなかった。そう言って差し支えないほどの殺風景だった。大病院の個室ともあって中は広く、ベッドは自動リクライニングだしテレビもそこそこの大きさだ。
しかしその他に、患者の持ち込んだものというのがとにかく少なかった。窓際には兎のぬいぐるみと花のついたサボテンがあるだけで、引き出しを開いても文庫本がいくつか仕舞ってある程度だ。
空虚。私が美影経由で聞いていた小夜の印象とは異なる、乾いた怖さがそこにあった。話の中ではきらきらとした年相応の姿が浮かんでいたのに、まるでいつ死を迎えても良いように、もっと言えば「死後に手間をかけさせないように」しているような、そんな恐ろしさだ。
その印象は、美影の付き添いで行ったときと殆ど変わりない。時が止まったような、彼女が止まれば空間も静止するかのような一体感。
それはつまりどういう事か。
ぬいぐるみは汚れなく真っ白だが、手にとって手足を動かすと容易に上下した。使い込んでいるものなのだろう。また普段は隠れている関節部分と、表面の毛とに若干の色の差異があった。いくら真っ白に見えても、表立った部分と内側に隠れた部分とでは僅かながら汚れ具合を見て取れる。
「このサボテンは?」
手にとってぐるりと観察しながら尋ねる。
「それは美影ちゃんが持ってきてくれたものよ。お見舞いに来てすぐだったかな」
「小夜は読書が好きなんですね」
「ええ、あの子が集めていたものを定期的に渡しに来ていたの」
小夜はものを大切にするタイプのようだ。それはぬいぐるみを見てもよくわかる。文庫本にはそれぞれ書店で貰える紙のブックカバーが巻かれていた。しかしその中の一冊だけ、何も巻かれていないものがあった。表紙を見て、私の仮説は確信に変わった。
本の世界に浸り、想い出の兎のぬいぐるみを見つめながら、彼女は過ごしていた。
そこへ美影がやってきた。始めこそ罪悪感から美影の献身的な見舞いが続いたけれど、それはいつの間にか小夜にとっても心の支えになっていただろう。そうでなければ、美影はあそこまで思い詰める事は無かっただろう。
これ以上は踏み込むなと、お互いの日常を守るべきだと言われていたら。
これで全てが分かった。
私が聞きたかった二つ目のこと、その答え。
「帆波さん、凄く失礼な質問をしますが正直に答えてください。貴方は殆どお見舞いに来ていませんね」
「……どうして? あるはずないでしょう」
「おかしいとは思っていました。美影から色々な話を聞かされましたが、一番最初に自宅へ伺った時以降、殆ど貴方の名前は出てこなかったんです」
「単に省略しただけでしょう。あくまで小夜のお見舞いなんですから」
「私もそう思っていました。けれど変だと思いませんか? 貴方から聞かされた話には、美影の時と同じ違和感がありました。貴方の存在を感じられない、という共通の違和感が」
私はその為に本人から直接話を聞いた。
本当に美影が存在を省略しただけで実は病室にいたのならば、違う角度から見た出来事を聞けたはずだった。
しかし話された内容は常に「二人の物語」だった。三人で楽しくお喋りをした、なんて内容は殆ど無かった。
つまり、たまには来たかもしれないし美影とは違う時間に訪れた事はあっても、美影に及ぶほど献身的な通院はしていない。
全ては「伝聞系」なのだ。
「この本だけ、入院後に買われたものですね。何故ブックカバーが無いんですか?」
美影はあまり本を読まないから気付かなかっただろうけれど、仕舞われているもののうち一冊だけ、彼女が入院してから発売されたものだ。つまり元々家にあったわけがない。
病院のロビーにはコンビニがある。流行りものの文庫ならそこでも買える。しかし書店とは異なり、ブックカバーを付けてもらうことは出来ない。
他の文庫のものを使い回す方法もあっただろうけれど、そうはしなかった。彼女の几帳面さが真実を結びつけた。
帆波が見舞いに来ていない可能性は、美影から話を聞いた時点で予想していた事だった。だから相談の合間に住所を聞き出したのだ。
「美影の携帯をこっそり見たんですが、定期的に貴方と通話していました。何を話していたんです?」
もしかしてこの人は、
「貴方はまだ、美影を許していないんですね」
兎のぬいぐるみを取り、哀愁たっぷりな目でそれを見下ろしてみせた。美影には自身の健康を気遣うようアドバイスした。半分は住所を聞き出すためのトリックだが、もう半分はちゃんと本心なのだ。それは罪悪感を刺激しない為に考えたアプローチだ。
ならばその反対をしてやれば、罪悪感を刺激できる。相手の仄暗い感情を呼び覚ますのは言葉ではなく、仕草だ。
儚げな目。交わらない視線。小さな吐息。弱々しい掌。全てが何よりも強いメッセージになる。小夜は意図こそ無かっただろうが、美影にそんな凶器を日々突きつけてしまっていたのだ。
声をかけても届かない悲しみは、何よりも脳裏に爪を立てる。
「初めて美影ちゃんが家に来た時の話、したかしら」
「ええ、美影と帆波さんとでおおよそは」
「言ったでしょう。親としては怒りたいと」
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