審判

 誰も来ない病室で、私は夢を見た。

 見慣れない駅のホームに私は立っていて、ちらちらと線路を伺っていた。そろそろ来るかな。間に合うかな。そんな事を思いながら、電車の到着を待っていた。


「間もなく、■番線に■■経由■■行きの電車が参ります」


 そのアナウンスを待ち焦がれていたれけど、結局静かな静かなホームの隅で立ちすくんだまま、夢から醒めた。


 夢から醒めたとて、そこに■■が見えるわけではない。朝を告げる■の■■■が聞こえるわけでもない。とこしえの暗闇とゆらぐ沈黙。世界は驚くほど孤独を押し付けてくる。

 一つの器官を補うように他の器官が進化する。そんな救済は訪れない。機能を喪ったものに続くように、五感は悲劇を模倣しだす。

 今、私は何を食べているのか。

 窓は開いているだろうか。季節はどれか。

 風に舞う花弁。

 打ち水をされた土の香り。

 今、そういえば今って何月だろうか、とにかく今は目と耳が喪われた。だから風を受ける肌は実在するし、花の香りも体内で芽吹く。

 しかしいずれ何も感じられなくなる。

 私には私しか遺されなくなる。

 せめてそれだけは信じたかったから、私は歌う。


「Are you going to Scarborough Fair? Parsley, sage, rosemary and thyme...」

 

 サイモン&ガーファンクルの『スカボロー・フェア』を唄うときもあれば、


「君は事実を見誤っているのだよ……判決は一時に降りるものではなく、手続きが判決へと移り変わってゆくのだ……ああ全く、君は二歩前方が見えていないのか……」


 かつて読んだ物語を一人で語り続ける時もあった。

 フランツ・カフカの『審判』。ある日、身に覚えのない罪で裁判にかけられ、何も理解できぬまま殺される男の物語。

 不条理。私のこともそんな言葉で飾り立ててくれないだろうか。

 残された器官のうち、嗅覚が美影ちゃんの匂いを覚えるようになった。彼女は微かに香水を付けている。

 まずはじめに私の手に触れ、存在を認識させてくれる。そしてこっそり小さな■■■を口に入れてくれた。

 食感で恐らくチョコだろうと分かり、


「■・■・■・■」


 と大げさに口の形を変えて気持ちを伝えた。

 歪で壊れやすく、しかし懸命に紡ごうともがいた日々。

 そこに彼女がいると信じて、私は変わらぬ私であると信じて、見えない聞こえない感じられない貴方に向けて私を演じ続けた。

 それは二十歳まで続いて、そして全て台無しになった。

 私は壊れた機械人形です。鈍色に光りながら泣いています。そして泣いている事にすら気付けないほどに崩れ落ちてゆきます。ピリオド。


 病院食にも香りはある。味気ない献立ではあるけれど、それぞれに食材の香りがする。しかし看護師さんに身体を叩かれるまで、それが置かれた事に気付けなかった。

 ■■を口に運ぶ。舌に触れるとそれがご飯であると分かった。

 また別の日に口に運ぶと、■■は■■のままだった。

 私の世界が、どんどん封鎖されていく。きりきりと身体が締め付けられていく。

 窓際の■■■■に■は付いたのか。

 この■■の音階は合っているのか。

 ■の■■はどうだろうか。

 ■■■■■は来てくれるかな。

 ■■■■はどうしているかな。

 もう一度、■■の■を■りたかった。


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