どうして

 何度目かのお見舞いの際、彼女はお土産を持ってきてくれた。


「ぬいぐるみだけだと寂しいかなと思って」


 少し赤らんだ頬が、照れくさそうに視線を逸した仕草が可愛かった。今はまだ美影ちゃんを認識出来ているけれど、いつこの瞳が彼女を映さなくなるか分からない。だから見えるうちに沢山の顔を覚えておこうと思った。


 手渡されたものは、何やら小さな鉢植えのようだった。手に持った感触でそれは分かったけれど、何の■■かが分からない。

 触ったら認識出来るかなと思い、そうっと指を伸ばした。多分この辺に花びらがあるだろうなと思いながら。

 ちくん。


「うわあ!」


 瞬間的にそれが「サボテン」であると理解した。棘のある植物はそれしか知らない。まさかハエトリグサを持ってくるわけもない。

 サボテンかあ、と保険のため呟くと、特に否定もされなかったので確信した。サボテン。記憶した。

 美影ちゃんは何も言わなかった。聞きたいだろうに、頑なに私の意思へ委ねている。それを無責任だと言う人もいるだろうけれど、私はそれが有り難かった。話したい時、話したい人にだけ話したいから。自ら聞こうとするなら断られても怒らないでよね。しかし得てして「聞けば答えてくれる」と思い込んでいる人はそこそこいそうだ。


 私は自らの病状について説明した。

 といっても、具体的にどういうふうな世界に暮らしているのかは言葉にしづらい。例えるなら幕が降ろされるようなものだろうか。

 病院内の景色は代わり映えしないから不便もないけれど、たとえば窓の外で車の音がしても、目には映らない。しかし間違いなくそこには何かがあって、何もない道路に書き換えられるわけじゃない。ぼやけたような、塗りつぶされたように映るのだ。

 まっくろくろすけみたいに可愛らしい影なら良かったのに。そう丁度、誰かの名前みたいに美しい影であったなら。


 目が見えなくなったから、■■を読めなくなった。まだ読みかけの本があったし、読みたいと思っていたものも沢山あった。『■■■■■■■』を読み終えたら『■■■■■』を読みたかった。

 だから代わりに音楽を沢山聞くことにした。『民衆の歌』を聞きながら食べる朝食というのも乙なものだった。『夢やぶれて』を聞く気にはなれなかったけれど。

 美影ちゃんの姿は見られなくなっても、その言葉や肌のぬくもりが孤独を癒やしてくれた。お母さんよりも多くの時間を彼女と過ごしたかもしれない。

 本当は聞きたいことが沢山あった。大学は大丈夫なのかとか、たしか一人暮らしをしていたはずだけどアルバイトとかしなくていいのかなとか。

 でもそれを聞けるような状態に無いし、拒絶したくもなかった。彼女の存在は太陽の次に大きなものになっていたから。


 ある日、美影ちゃんが一緒に映画を見たいと話してくれた。デートだ! と叫びたかったが流石に迷惑だろうと呑み込んだ。恥ずかしがる美影ちゃんを見たいだけなんだけれど、本気で受け取られたら切ないもの。

 代わりに見せたい映画というのを当てると宣言した。そんなに詳しくないけれど、彼女いわくマイナー過ぎるものじゃないとの事だった。最新のものでもなく、あと洋画らしい。それなら何とかなりそうだ。

 

 それ以降、会うたびにタイトルを一つずつ挙げていった。回答は一日一回。ルールがあってこそ楽しめる。

 しかし中々当たらない。それもそうだ、映画なんて星の数ほど存在する。多少のヒントを貰ったとてちっとも絞り込めない。

 今日は何にしようかな、と窓の外を眺め、通り過ぎる■■■■■■を睨んでいた。


「■■■■■■」


 何かが耳の中を駆けた。風かな。それよりも今度はアクションの名作で攻めようか……。


「小夜?」


 驚いて振り返った。美影ちゃんの声だ。



「あ、美影ちゃん! ごめんね、ぼーっとしてた。ああえっと……タンタンの冒険?」


「小夜……?」


「タンタンの冒険! 正解?」


 無邪気な笑顔で尋ねる姿と裏腹に、私は渦を巻く海原のような激しい心音に怯えていた。冷や汗なんてものはこういう時にこそ出てくれない。汗をかくよりも先に魂が悲鳴を上げるから。


「……ハズレ。ごめん、トイレ行ってくる」


 ああ、気付かれてしまった。私が美影ちゃんの表情を観察するように、彼女もまた私をよく見ている。

 きっと主治医さんを呼びに行ったのだろう。そして私はあれやこれやと検査をされるのだろう。

 しばらく会えなくなるかもしれない。寂しいな。お母さんが来るのは夕方の予定だったけれど、連絡が行くかもしれない。

 こつこつと遠のいていく彼女の足音を聞きながら、窓際の■■■■に手を伸ばす。伸ばして気付く。ああ、こうやって喪っていくんだ。何もかも。

 その隣にある兎のぬいぐるみに触れた。貴方はまだ私を見てくれているんだね。

 貴方の中に詰まった思い出が、私を支えてくれている。貴方が見えなくなってしまったら、いよいよ私は泣いちゃうかもしれない。

 ああでも、お母さんや美影ちゃんも感じられなくなったら怖いな。こんなにも私を思ってくれる人の事を認識出来なくなるのは辛い。


「兎さん、どうしてなんだろうね」


 その後、精密検査の段取りと数日間の面会謝絶が言い渡された。


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