Chapter 2: Moon Walker

ぬいぐるみ

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Chapter 2: Moon Walker

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 その日も変わらない日差しだった。慌ただしい声も無機質な心音も無い、静かな昼下りだった。

 そろそろかな、と思った丁度その瞬間、個室の扉がからからと開かれた。お母さんが私を見て微笑んだ。顔を見ただけで、私の心は暖かく満たされる。耐えるしかない哀しみを忘れられる。

 けれどお母さんは一度中へ入ってから、くるっと後ろを振り返った。廊下で一言二言話して、誰かを招き入れた。

 入ってきた人はお母さんよりも少し背が高くて、すらりと伸びたジーンズが格好良いな、とまず思った。しかし顔は伏せたままで、ベッドからだとよく見えない。また視力が下がってしまったかもしれない。

 出来るだけ目を細めてぼやけた視界を引き締めようと努力した。一応眼鏡もあるけれど、そちらに慣れてしまうとますます視力が下がってしまうかもしれない。だから出来るだけ道具には頼らないようにしている。

 時間にして何秒だろうか、沈黙の中をその人は俯き続けていた。けれどその髪や鋭い目つきを見て、私はふと思い出した。


「あれぇ、美影ちゃん! どうしたの」


 あ、美影ちゃんだ。本当にそれだけの感情だった。随分大人びた姿に成長しているけれど、あの頃と変わらない力強い顔つきをしている。けれどどうして俯いているのだろう。そんな怯えた姿は一度も――あ、違う。中学校の頃に一度あった気がする。

 美影ちゃんは私の顔を見るなり、張り裂けそうなほど痛々しい表情のままベッドに駆け寄った。びっくりしたけれど、シーツを固く握り締めて跪いた。私はそれをぽかんと眺めていた。


「ごめんなさい、小夜……ごめん……本当にごめん」


 顔を押し付けたままだったが、声色とじんわり熱を帯びてきたシーツに触れて、彼女が泣いている事に気がついた。

 何に謝っているのかよく分からなかった。思い当たる節といえば、さっき思い出した中学校の出来事だ。でも泣くほど謝るものだろうか。状況がよく掴めなかったけれど、とりあえず安心させたかった。


「たんこぶにはならなかったよ。ちょっと痛かったけど」


 それが美影ちゃんとの再会だった。



 それから毎日のように彼女はお見舞いに来てくれた。高校の制服はとびきり可愛くて、スカート姿の美影ちゃんもまた良いな、なんて思っていた。

 後日お母さんに聞いたところ、美影ちゃんは私を虐めていた事をずっと悔いていたらしい。私としては然程気にしていなかったし、世の中を見渡せばもっとどうしようもなくて、救いようのない行為で溢れているのだと理解していた。

 嫌では無かったけれど、「そういう事」をしてしまう人なんだ、とぼんやり感じていた。その程度だった。

 だから話を聞きながらふと気がついた。ああ、単に興味がなかったんだなって。具体的に何をされたかなんて全く覚えていなかったもの。

 ただ、確かあれは受験シーズンの頃。しばらくぶりに声をかけられて、脚を引っ掛けられた時。それはよく覚えている。転んでから見上げた彼女の顔は凍りついていた。

 なんだ、そういう表情もするんだな、と安心した。私の事を都合のいい玩具みたいに捉えられていたら流石に怒ったかもしれないけれど、ちゃんと一人の人間として見ている。だから予期せぬ音、つまり頭部が打ち付けられる音に驚いて、心配したいけれどプライドが邪魔をする、なんていう複雑な感情を発露していた。

 平気だよ、なんて言うと彼女の抱いた恐怖心が拭われてしまう。それは勿体ない。人を傷つけることの怖さは覚えておいてほしい。誰がいつ、何を喪うか分からない人生だ。喪ってから後悔するより先に知っておいたほうが良い。


 だから私は、半分は冗談のつもりで。

 もう半分はちょっとした悪戯心で。


「たんこぶって言うと可愛らしいけど、皮下血腫って言うと途端に怖いよね」


 突拍子もない発言をしてその場を立ち去った。

 興味の対象外だと受け取られたかな。あるいは変なやつ、と虚勢を張っているのかな。

 けれど私は何となく予見していた。特定の物が見えづらくなってきている。もしかしたら土曜日の定期検診でついに入院を言い渡されるかもしれない。

 もしそうなったら、タイミングが悪いかも。いや、たんこぶのせいで入院なんて考えるわけ無いか。


 ――と、当時の私は考えていた。まさか本当にたんこぶ事件からずっと引きずっていたなんて思ってもみなかった。

 美影ちゃんは贖罪のつもりか、あるいは純粋に私を心配してなのか、常に私を気にかけていた。けれど何で入院しているかを聞かなかった。

 決して相手の心に土足で踏み込まない。そういう信念があるのかもしれない。

 いつもブラックコーヒーを手に入ってくる彼女は、ある時からカフェオレも一緒に買ってきてくれるようになった。一番甘いやつが良い、という私の希望に忠実に従って。窓際に二つ並ぶ缶コーヒーと、その隣に鎮座する兎のぬいぐるみ。それが私にとって代えがたい日常の象徴になっていた。


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