また明日
精密検査のため、数日間の面会謝絶が言い渡された。何をしたら良いかも分からず、新音に会いに行った。
長年連れ添った、唯一信頼を置いている親友。彼女ならきっと真剣に相談に乗ってくれるだろうと思っていた。しかし。
「最近、ちゃんとご飯食べてる?」
開口一番に言われたのがそれだった。
私は小夜の事を相談したかったのに、彼女は私の健康状態ばかり心配していた。そんな事はどうでも良かったのに。私の健康状態なんて、この先の未来に重要ではなかった。
だから話を遮って小夜の話をした。あの子の事は新音も覚えていて、病気の話をしたときには深刻そうな顔で聞いてくれた。ほっとして私は尋ねた。
「どうしたらいいのかな……」
それに対する新音の返答は簡潔で素っ気のないものだった。
「お見舞いに行くのを止めたらいい」
そのあと、どんな言葉で私を説得していたのか。それにどう返事をしたのか。あまりよく覚えていない。
その日の夜、小夜は夢に現れなかった。
私は見慣れない電車に乗っていて、目の前には吊り革がずらりと並んでいた。車内には他に誰も乗っていなかった。
がたん、とレールを叩くたびに揺れる吊り革は少しずつその輪を広げていった。やがて頭くらいにまで輪が膨らんだ時、私はその吊り革を掴んだ。
がたん。がたん。その音色だけが鼓膜を支配する空間で。
ゆらり。ゆらり。その景色だけが網膜を支配する空間で。
私はその吊り革に首を通した。
そうしたら次はどうしよう。
その時私は私を第三者の視点で眺めていた。 その私がこちらを向いた。カメラに視線を送る役者のように。
見える私と見えない私との目が合って、あちら側が口を開いた。
その一音目が耳へ届くその瞬間に目が覚めた。あるいはその音に驚いて飛び起きたと言ったほうが良いだろうか。
まだ早朝の四時かそこらだった。嫌な夢が続いていた。
窓辺の缶コーヒーは一本だけ。ずっとずっと黒いブラックコーヒー。
視力を喪った小夜は本を読まなくなった。まだ結末まで読めていない物語があったはずなのに。彼女はベッドの横にある引き出しのずっと奥にそれを隠した。悲しいことに、私はその表紙を見てもどんな物語が秘められているのかを知らない。活字を読むのは昔から苦手だった。映画のほうがずっと楽しかった。
聴力が殆ど喪われ、もう自分の声くらいしか届かなくなった時、彼女はずっとうわ言をつぶやき続けていた。
「Are you going to Scarborough Fair? Parsley, sage, rosemary and thyme...」
歌を唄うときもあれば、
「君は事実を見誤っているのだよ……判決は一時に降りるものではなく、手続きが判決へと移り変わってゆくのだ……ああ全く、君は二歩前方が見えていないのか……」
何かの物語を一人で語り続ける時もあった。
もはや小夜の世界には彼女以外のものなど立ち入る術がなかった。
しかし残された五感のうち、嗅覚が特有の匂いを感じ取るのか、私が来ると彼女は小さく微笑んでくれた。
こっそり小さなチョコを口に入れてやると、お・い・し・い、と大げさに口の形を変えて気持ちを伝えてくれた。
そして掌に指を絡めさせると、その細く優しい手が握り返してくれた。
一度だけ、新音が付き添いでやってきた。どうしても付いていくと言って聞かなかったから。本当はもっと元気な時に会ってほしかったけれど仕方ない。病室には三人いるのに、ただ静かに呼吸だけが流れていた。
「……毎日なの」
長い沈黙の後、新音は呟いた。
「毎日、こうして通っているの」
「そうだよ」
「話しかける相手もいないのに」
「小夜がいるじゃん」
「でもそれは……」
また沈黙が生まれた。どうしようもないんだ。それは彼女も分かっているだろう。そもそもどうして私が毎日通っているのか、その理由だって知りようが無い。
私の根底に漂うものは、冷たい廊下と鈍い音。そしてざらついた優しい聲。過去が現在を締め上げて、現在が未来を枯らしてゆく。
私は臆病者の囚人です。鈍色にくすんだ顔で泣いています。そして泣いている事にすら気付けないほどに崩れ落ちてゆきます。ピリオド。
「先に帰る」
新音は立ち上がって、小夜を見た。じっと見つめる顔は、怒っているようにも堪えているようにも見えた。
やがて背を向けて、振り返る事なく真っ直ぐ出入り口へ向かう。
「新音」
私は彼女に声をかけた。背中を向けたまま、彼女は入口で立ち止まった。
「百年後にまた会おう」
それは子供の時から使っている、「また明日」に変わる挨拶だ。何でこんなフレーズを選んだのかはもう覚えていない。
「縁起でもない事言わないで」
はいはい、と笑いながら手をふる姿を想像していたけれど。記憶の中の新音は、私と一緒にいるといつも嬉しそうだったのに。
今はもう、言葉のままにしか受け止めてくれない。彼女の笑顔を長らく見ていない気もする。
けれど。それでも私が貴方を信じているのは。
迷いのないその後ろ姿にこそ、私はずっと憧れていたからだ。私のような臆病者には無い、芯の通ったその生き方が欲しかった。
またね。
素直にそう言えば良かった。
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