仙人掌

 それから頻繁に、放課後は小夜のもとへ向かうことを決めた。初めはなんの病気で入院しているかを知らなかったし、見た目に外傷や手術痕は見られず、定期的に検査が行われる以外は元気そのものだった。

 変化に気づいたのは、私が鉢植えを持っていた日のこと。自販機で買ったブラックコーヒーと鉢植えとで両手が埋まっていた。


「ちっちゃい奴なんだけどさ、気分転換にどうかなって」


 私は立ち寄ったお店で買った小さなサボテンをプレゼントした。病室というのはどこも殺風景で、小夜の部屋にはいくつかの本と兎のぬいぐるみくらいしか見どころがなかったから、良い刺激になるだろうと思って持ってきた。

 彼女はそれを手に取り、じいっと見つめた。指先がすうっと伸びて、サボテンの棘に思いっきり刺してしまった。


「うわあ!」


 驚いて手を引っ込めて、小さく呟いた。サボテンかあ、と。

 確かに私はサボテンだとは言わなかった。小さいとはいえ、見れば誰だって分かるものだからだ。しかし彼女は、棘のあるものだという認識を持たないままに指で触れた。そしてサボテンか、と合点のいったような言葉を発した。

 もしかして。沈黙は遠回しな質問として彼女に伝わった。


「うん、視力が急激に落ちたの」


 彼女は自ら答えを告げた。

 私が病室に入ったとき、俯いていたし緊張もしていたから気が付かなかったけれど、小夜が「美影」と呼びかけるまでには少し間があった。

 彼女はベッドから身を乗り出し、ぐっと目を細めて私の顔を確かめていたらしい。

 視力が落ちたにも関わらず、彼女は眼鏡をかけていなかった。その理由は単純で、これが通常の視力低下とメカニズムが異なるかららしい。

 近視や遠視によりピントが合わないのなら、眼鏡による矯正を施せば改善される。しかし彼女の場合は視界の情報を処理する部分に不具合が起こっているのだという。


 私達は恐るべき情報量を誇る景色を一瞬で認識し理解する。それには膨大な脳内通信が消費される。その通信網が上手く機能しないがため、新しく目に映る情報が輪郭を帯びるまでに時間がかかるのだと言う。

 病室のように情報が少なく、変化の乏しい場所であればちょっと目の悪い人程度の不便さに収まるそうだが、「私」や「サボテン」という思ってもみない新しい情報を前にすると、脳が処理しきるのに時間がかかる。それまでは滲んだ絵のような景色が見える、と小夜は表現した。


「美影ちゃんの顔も今はだいたい見えているんだけど、それも次第に見えなくなるかもしれない」


 今は新しい情報を取得し記憶ブックマークする力があるけれど、その機能がいつ動かなくなってもおかしくないらしい。

 そしてそれは視力だけに限らない。

 視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。予め備わった基本的機能の全てが同様に失われていくのだ。ジグゾーパズルのピースが一つずつ剥がれ落ちていくように、彼女の観て聴いて感じる世界は少しずつその色が欠けていく。

 私達は抜け殻になっていく小夜を、ただ黙って看取ることしかできない。

 十六歳の夕焼け。余りにも重く、哀しい事実を私は知った。

 彼女が小学生の頃から隠していたのは、いずれ暗闇に囚われる恐怖だったのだ。


  ぶーん。ぶーん。心臓よりも主張する振動がポケットで暴れる。


「元気そうで良かった」


 少しだけ、微笑んだ。


 

 真実を知ってから、週に三回ほどだったお見舞いは毎日の事に増えた。

 彼女が夢に現れる回数も増えた。彼女の世界が少しずつ喪われていく一方で、私の世界は少しずつ小夜で上書きされていった。

 私が見舞いに来たときには、窓辺にブラックコーヒーとカフェオレが並んで置かれる。もちろん後者が小夜のぶん。彼女はバリバリの甘党だ。

 

「もし全部治って元気になったらさ、一緒に映画を観たい」


 そう言ったら彼女はにやりと端の歯を見せた。


「何を見せたいか絶対当てる」


 それからは毎日、こんな会話が挨拶代わりになった。


「おはよう小夜」


「おはよう美影ちゃん。ニュー・シネマ・パラダイス?」


「ハズレ」


 聞いていいのは一日一回だけ。小夜は自発的にルールを定めて毎日映画のタイトルを質問した。

 私も嘘はつかない。当てられたら正直に答えるつもりだったけれど、中々そのタイトルは出て来なかった。

 思えばその頃から、私はこの先の未来と自らの選択について考えていたのかもしれない。


 イエスマン。英国王のスピーチ。ウルフ・オブ・ウォールストリート。グッド・ウィル・ハンティング。スティング。数々のタイトルと共に変わらぬ日常は進行していた。

 しかし変化は確かに少しずつ動いていた。それが異変となって現れるのは、何もかも台無しになる崖の縁に足をかけてからだ。


「おはよう小夜」


 扉を開けて声をかけると、彼女は窓際に置いたサボテンを見つめていた。彼女は毎日ちゃんとお世話をしていたので、いつの間にかそれは病室のマスコットキャラになっていた。隣には相変わらず兎のぬいぐるみが置かれている。恐らくずっと大切にしていたものなのだろう。真っ白い毛には汚れ一つなく、陽に当たるときらきらと光を放つようだった。

 自販機で買ったブラックコーヒーのプルタブを起こして、それでもなお返事がない事を不思議に思った。


「小夜?」


 少しだけ大きな声でもう一度呼ぶと、彼女はびくんと身を跳ねさせてこちらを振り向いた。


「あ、美影ちゃん! ごめんね、ぼーっとしてた。ああえっと……タンタンの冒険?」


「小夜……?」


「タンタンの冒険! 正解?」


 無邪気な笑顔で尋ねる姿と裏腹に、私は氷のように冷たくなった肌に怯えていた。冷や汗なんてものはこういう時にこそ出てくれない。汗をかくよりも先に心まで凍りつくから。


「……ハズレ。ごめん、トイレ行ってくる」


 私は廊下をかけて担当医を呼んだ。

 情報処理が少しずつ欠落していく現象は、視力に続いて聴力にも現れ出した。

 一つずつ喪われるのではなく、一つが欠けていけばそれに迎合するように他の器官も模倣しだす。誤った方向への適応が悲劇への進行と侵攻を加速させる。


 ぶーん。ぶーん。心臓よりも主張する振動がポケットで暴れる。


「あの子の力になりたい」


 たとえ思い上がりだと言われても、一度繋いだ糸を解く勇気は無かったから。

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