満月の夜に芝生の山で
霜月このは
満月の夜に芝生の山で
中央線沿いにある、私の通っている大学は、戦後に建学した国際系の大学で、広大なキャンパス内はそこらじゅうが木々で覆われていて、昼でもほんの少し暗い。
まるで有名なアニメ映画にでも出てきそうなビジュアルだからか、そこを「三鷹の森」だなんて呼ぶ学生もいるくらいだ。
最近は、古い建物の建て替えのために、ますますわけがわからなくなっていて、入学したばかりの頃はよく迷っていた。
そういえば、授業で普段使っている本館は、老朽化のために取り壊しが決定したらしい。戦前からあるらしい建物だから、新しい建物になるのなら、それはそれでいいかもしれないとも思う。
「何やってんだ、ぼーっとしてると置いてくぞ」
「ごめんごめん、ちょっと忘れ物したから、先行ってて」
「観望会、7時からだから。遅れんなよ」
「はーい」
天体観測サークルの仲間に呼ばれる。今日は大学の側にある国立天文台で、観望会が行われる日だ。
今日見られるのは月らしい。
月なんていつでも見られるじゃないですか、って言ったら、『わかってないねぇ、武蔵野と言えば月でしょ』なんて言われた。
よくわからないけど、そんなものなのか、と思う。
サークルの部室で、忘れた教科書を回収してから、あわてて皆を追いかける。
芝生に覆われた小さな山みたいになっているところを越えて、チャペルの角を右に曲がって進んでいくと、天文台への近道の裏門へ出られる。
ここまではよかったんだけど。
いつのまに工事したのか、知らない建物が増えているせいで、気づいたら道に迷ってしまっていて。
なぜかまた、本館前の芝生に戻ってきてしまう。同じことを二、三回くらい繰り返したところで、私は天文台に行くのを諦めた。
別に月くらい、ここからでも見られるし。
今日は何年かに一度ある、特別なスーパームーンとかいうやつで、雲ひとつない夜空に輝く月は、肉眼で見ても眩しいくらいだった。
芝生の山に腰掛けて、ひとりで月を眺める。もう十一月も後半だから、少し寒いけど、耐えられないほどじゃない。
こんなとき、お酒でもあればいいんだけど、あいにく学内は酒類の持ち込みが禁止だから、残念なところだ。
「綺麗な月ね」
「え、何」
いつのまにか、隣には学生と思われる女の子が座っていた。
「ごめんね、お邪魔だったかしら」
「いや、別にいいけど。こんな時間に一人でお月見?」
「ええ、あなたも?」
「サークルのみんなに置いてかれちゃってさ。見てのとおり、一人だよ」
今日は土曜だから、わざわざこんな時間に芝生に座ってるなんて、明らかに変人だろう。
だけどうちの大学じゃ、変人というのはむしろ褒め言葉だ。それに、なんとなく不思議な雰囲気のある彼女に、私は少し興味が湧いていた。
しかしさすがに初対面で、いきなり話が弾むでもなく、私たちの間にはしばしの沈黙が流れた。
「めぐりあはむ」
しばらくして、突然、彼女が言葉を発する。
「え?」
「めぐりあはむ 空行く月のゆく末も まだはるかなる武蔵野の原」
「なに、急に」
「月を見ていたら、思い出したの。でもあんまり昔に聞いたから、誰の歌だか忘れちゃった」
彼女は笑いながら言う。いたずらっ子みたいな笑顔が可愛らしい。
なんて反応したらいいかわからなくて、私は黙って彼女の顔を見つめる。
彼女はお構いなしに話し続ける。
「あの日は月が見えなかったわ。雲におおわれてしまっていたの。でもそのせいで助かったのよ」
「あの日って?」
「ずっと前よ」
なんだか、はぐらかされてばかりだ。それにしても、ずいぶんと古風な話し方をする子だなぁと思う。
彼女は淡々と話す。
「私ね、姉がいたの。ずっと昔に遠くへ行ってしまったけど」
すごく、寂しそうな顔をするものだから。頭でもポンポンしてやろうかとも思ったけど、さすがに初対面でそれは馴れ馴れしいだろうと思って、やめておいた。
「私ね、近々ここを離れるの。本当は行きたくないけど、仕方ないわね」
「どこに行くの?」
「ずっと遠くよ」
せっかく会えたのに、それはずいぶん残念な話だった。
「姉が見れなかった月を、最後に見れてよかったわ」
彼女がそう呟いた瞬間だった。
その瞬間、森が吠えた。ぐらぐらと地面が揺れて、唸り声のような地鳴りに襲われる。
森が叫び声をあげているようだった。そしてどこから鳴っているのか、大きなサイレンが鳴り響く。
「こっちよ、早く」
彼女に手を引っ張られて、慌てて走る。
「空襲よ。逃げなきゃ」
空襲って、そんな馬鹿な。何が何だかわからないまま、私たちは本館の裏に駆けていく。
「あっ」
声をあげて彼女がつまずく。
「ちょっと、大丈夫? なんなんだろ、これ」
月が綺麗だったはずの空は、煙のようなもので黒く覆われていた。遠くに、何か赤い光が見える。
「ごめんね、私、もう行かなきゃ」
「なに言ってるの? なんか今、変だし、ここにいなよ」
私は強い口調でそう言ったけど、彼女は静かに首を振る。
「……私、ほんとは怖かったんだ。ここを離れないといけないのに、震えが止まらないの」
「離れなくていいじゃん。なんでここにいたらいけないの? いたいならずっといたらいいのに!」
初対面の相手にここまでムキになるなんて、自分でも驚くくらいだった。
だけど、彼女は悲しそうな顔をして言う。
「ねえ、忘れないでね。私がここにいたこと、ずっと覚えていてね」
「……わかったよ。忘れない」
「ありがとう」
私の言葉に、そう返すやいなや、彼女は忽然と姿を消していた。
名前も名乗らずに。
そのあとは、どうやって家に帰ったのか、よく覚えていない。気づいたらもう朝で、私は自宅のベッドの中だった。
夢だったのかな、なんて思って、洗面所に向かう。そこで気づいた。私は昨日の服のままで、肩には芝までくっついていた。
わけがわからなかった。
週明けの月曜日。授業が終わった午後七時過ぎ。いつものように大学図書館に行き、パソコンの前を陣取る。インターネットのブラウザを立ち上げると、大学からのお知らせが目に入った。
お知らせは、反対運動のために、本館の取り壊しが中止になったというものだった。なんでも、戦時中のなんかの資料として、修理して保存するのだそうだ。
適当に読み流してしまったせいで、何の資料なんだか、忘れてしまったけど。
だけど、建物が残るのはいいことかもしれないとも思った。
ふと窓の外を見れば、この間よりは存在感がなくなったけれど、綺麗な月が出ていた。
「めぐりあはむ、か」
なんとなく、そんな言葉を思い出して、呟く。
根拠はないけれど、彼女には、いつかまた会えるような気がする。この武蔵野の、芝に覆われた原っぱで。
パソコンに目線を戻して、次のお知らせを眺める。明日の一限は本館の授業に変更か。
たまには古い建物も悪くないな。そんなことを思った。
満月の夜に芝生の山で 霜月このは @konoha_nov
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