第十話 生 徒と教 師
それはテスト結果発表、翌日の二時限目、数学の授業の時だった。
「皆さま、それでは先週のテストをお返しいたします」
穏やかな口調でその教師は生徒達に言い渡していた。
「がや、がや」とそれを聞くと生徒達が騒ぎ立てる。
「お静かに・・・」
その教師は優しい口調で生徒たちを静かにさせ、
「先生、嬉しくてよ、私のお教えするこのクラス、平均点が学年トップなんですもの」
その教師は本当に嬉しそうな表情で生徒達にそう聞かせていた。その美人教師が見せた顔に男子生徒諸君は各自、色々な事を呟いていた。その女性は新米教師の為まだ一学年一クラスの授業しか任されていなかった。
「ハハッ。先生、冗談きついぜ」
「エッ、マジで!」
「うっそぉ~~~?」
「藤原先生の教え方がいいからですよ」
「今回は運が良かっただけじゃないの」
そんな風に生徒達が色々なことを勝手に口走しっていた。
「皆様お静かに・・・、それと今回のテストで満点取れましたの学年で一人しかいないのですよ」
なぜか嬉しそうにその教師はそう口にしていた。
「それでは男子から名前の順でお呼びしますので取りに来てくださいね・・・、沖田君・・・、尾張君・・・、海藤君・・・」
順に生徒達を呼んで少し話した後にまた次の生徒を呼ぶ。
「柏木君」
「ウイ~~~ッス」とそう返事をした後、彼は先生の所へ行き前に立ち、
「柏木君。今回、すごく頑張ったようですね。先生とっても嬉しいくてよ」
その教師は嬉しそうに言いながらテスト用紙を彼に手渡した。
「・・・???うおぉおぉおぉおっ、やったぞ、貴斗!」と叫びながら彼は友の所に駆け寄り、
「ホラ、貴斗見ろよぉっ!この点数」とボーっとしていた彼に宏之は自分のテスト用紙を見せた。
「ホラ、見ろ、見ろ89点だ!」と口に出しながらそれを貴斗に見せびらかす。
「えぇ~~~」
「うっそ~~~、それ本当?」
「マジかよ、柏木に負けるなんて」
「屈辱的ぃー」
「今日の天気はこれから大荒れだ」
「宏之、アンタの運これで使い切ったわね」
クラスメートは思い思いに好きなことを勝手に宏之に言っていた。その中には慎治や香澄の声も混じっていた。
「へっっ、へぇ~~~んだ。何とでも言いやがれ、皆の衆。今の俺は嬉しくってそんなこと気にしないぜ!」
彼は胸を張ってそうクラスの全体にそんな言葉を吐いた。
「貴斗、マジで今回は感謝しているからな」
「アぁ~ソぉ~↓」
「何だよ、その冷めた言い方はマジで感謝しているんだぜ!お前の教え方にな!」
「別に、感謝される様な事をした覚えはない。今回のテストの結果、それはお前の努力の現われだろ」と平然に彼は宏之に答えた。
「ホラ、先に進まねぇ~~~だろ、ここよりイネっ(去れ)」
「わかったよ。でも、恩にきるぜ、今回は」と言って彼は席に戻っていった。
周りは宏之の事でまだ騒いでいる。
「ハイッ、皆さんお静かに!お続けいたしますよ」と言ってはテストを返すのを再開した。
「齋藤君・・・、沢渡君・・・、高科君、額賀君・・・、日向君・・・」
「藤原貴斗君」
呼ばれた彼は返事もせずテクテクと歩いてその教師の前に立った。そして、貴斗は返されたテストの点数をチラッと見てから直ぐに席に戻ろうとした。
「おっ、お待ちになってください貴斗君。わたくし、まだ何も言っていないのですよ」
立ち去ろうとする彼を彼女は慌てて呼び止めた。
「うん?別に、話す事なんかないだろ」
彼は面倒臭そうに教師に振り向いて、見下ろしながらそう答えていた。そんな生徒に教師である彼女は冷静な口調で言葉を聞かせようとした。
「それは貴方がお決めになることじゃなくてよ」
「で?」と尚も面倒臭そうに短く答えを返していた。
その彼の態度を見たその教師は軽い溜息を付いてから少し強めの口調で彼に説く。
「貴斗君、貴方、授業中のお眠りが多くてよ」
「テストでちゃんと結果だしてれば、それでいいだろっ!」
何時も無感情で冷静な彼がすこし怒り交じりの声で先生に口答えした。 先生はその声に吃驚した顔を見せるが、直ぐに冷静になって言葉を返す。
「そういう問題ではないのですよ。貴方にも、しっかりと私の授業に参加してもらいたいのです。貴斗君、一人だけ特別扱いするわけにはいかないでしょ?」
「ハァンッ?授業にちゃんと参加して欲しい?」と嫌々した口調で生徒は教師のそれに答えを返していた。
「はいっ、そうです」
その教師はニコッと一般生徒なら嬉しすぎて気絶してしまいそうな微笑みでその生徒を見た。
「ふざけんなぁっ!!!なぜ俺が新米教師如きの、アンタのクダラナイ授業を受けないといけないっ!自分で勉強した方がマシだっ!!」
その生徒は怒った口調で教師の言葉に返していた。そして、それを後ろの方の席で聞いていた宏之と香澄がコソコソと密会を始める。
「オッ、おい隼瀬、なんかヤバくないか?」
「貴斗、今日はいつも以上に翔子先生に突っ掛かっているわねぇ・・・、
何かが起こる前に止めた方がいいんじゃない?」
それから、それを聞いていた慎治も話しに混ざってきた。
「俺も嫌な予感がするんだがな」
「止めるってどうやって?」
彼女が慎治に聞き返している内にその数学の教師は涙混じりになっていた。
「貴斗君?」
「うぜぇぇええぇんだよ!貴斗君、貴斗君って、気安く名前で呼ぶなっ!」
その彼の怒り交じりに大きな言葉にクラスの生徒は吃驚する。
貴斗の発した言葉に三人とも〝しまった遅かった〟という表情を浮かべ驚いた。
それから、その教師は何って答えていいのかも分からず、言葉に詰めてしまっていた。しかし、その生徒は止めを刺すように口を動かした。
「名前で呼ばれるのも癪、苗字が一緒?ムカつくっんだよっ」
そんな言葉を貴斗は面と向かってその教師に言い放った。
彼がそれを言った瞬間、直ぐに自分がどうでもいい事を口にしてしまった自分自身に気づき何かを言葉にしようとしたが・・・、手遅れ。
「ヒッ、酷いです。そのように、わっ、わたくしの事をお思いになっていたなんて・・・・・・」
貴斗の言葉を耳にしたその教師は口に手を当て、悲しみの涙を流しながらそう言い残し、急に教室を飛び出していってしまった。その教師が教室を出て行くと生徒達が急に騒ぎ出す。
「藤原、テメイ翔子先生泣かしたなっ!」
「アぁあぁああぁアッ、藤原先生、泣いちゃったぜ」
「藤原君、貴方何したか分かっているの?」
「テスト、まだ配り終わってないぞ」
「テストでいい点数、取ったからって、いい気になってんじゃないわよッ!」
「翔子先生、可愛そうだわ」
クラスメートは諸々に非難の目と言葉を彼に浴びせた。
「ぅッるセぇーーーっ、手前ら!」
その生徒達に向かってそう言うと黒板の前に置いてあった頑丈そうな教卓を思いっきり蹴り飛ばした。
教卓は『ベコッ』と音を立てて蹴られた場所が陥没してしまった。
「貴斗、器物損壊罪だ、それ」
それを見ていた彼が座っていた後方の席からそんな言葉を投げていた。
貴斗はチラッと宏之を睨んでから彼もまた教室を出て行ってしまった。
「毎度、よく言い争うよ、貴斗と翔子先生」
「全くだ。慎治、どうする追いかけよっか、奴の事?居場所、大体分かるし」
「行ってどうするんだ?貴斗、お前が悪いとでも言って先生に謝りにでも行かせるつもりか?」
「二人とも止めておきなさいよ。独りにして少し頭、冷やさせてやった方がいいわ」
彼女はそう言って彼等の行動を改めさせようとした。
「それも、そうだな」と口を揃えて二人の男は彼女の言葉に従った。
そのあと香澄は意味ありげに大きく溜息をする。
「なんだ、隼瀬その意味ありげな大きな溜息は?」
「何でもないは、何でも」
彼女はこの時、心の中で、
〈翔子ネェの気持ちも知らないで、全く貴斗のバカたれは・・・〉と呟いていた。
~ 校舎裏高台の大樹の下 ~
藤原貴斗、彼は二時限目の授業中のあの出来事の後、ここに来てズット考え事をしていた。
それは先ほど言い争った数学の教師の事だった。
藤原翔子、二十三歳らしい。〈情報の提供者は慎治から〉俺のクラスの数学担当教師で今年から配属されたばかりの新米教師。
受験を控える三年生を新米教師が担当すると言う事はとても異例であるはず。それとも何か理由があるのだろうか・・・?
あの先生の事情は良く知らないが慎治の情報筋からだと某一流大学の教育学部を首席で卒業し、高等学部教員試験も一回で受かったみたいだ。
それと小学から高校まではこの学校に居たという事である。
俺達の大先輩に当たるってようだ。
クラスの生徒の評判もかなり受けが良い。
性格、容姿もよく他のクラスにも人気があるようだったな。
俺から見ても・・・、悪い所など見当たらない・・・、それどころか非の打ち所などないのだが・・・。
しかし、何故かあの先生と面と向かって話すと精神的にイライラする。
そして、今回の事だって、どう考えても一方的に俺が悪いのに先生を泣かせてしまった。
「最低だな、俺、ククッ!」と小さく言葉に出し、自分を嘲笑した。
本当は俺から謝りに行くのが当然なのだが、また面と向かって話すと・・・、そんな事を考えると会って謝罪することを躊躇ってしまう。
これでは高校を卒業するまでの一年間ズット、先生とこんな関係を続けなければいけないのか?考えるだけで気が重くなる。
いっその事、先生の授業には出ず、テストだけ受けるという方法は?駄目だ、もっと良くない。
それでは学校自身を替える?これも駄目だ、俺には保護者がいない、それに学校編入の手続きの方法なんて知らないし。
これも却下だな。そして、そんな事を考えると俺はフと思った。
それは何故、俺はこの辺一帯の名門中の名門校である聖稜に試験も無しに入ることが出来たのか?
しかし、そう考えたのも束の間、判断する材料がないことに気づきすぐに諦めた。
「ハぁ~~~」と重い溜息を付いてしまった。
俺の問題は先生のことだけじゃない。
この学校に来る前までの記憶が一切思い出せない。
記憶喪失。思い出そうとしても、頭が痛くなる一方で、すぐに諦めてしまう。
それに手がかりも一切ない。記憶を取り戻す事も出来ずに無駄に時間だけが過ぎるだけだった。
そして、こんな自分自身が誰だか分からない奴なのに、こんな俺と付き合ってくれる友達が少なからずいる。それから、何故か恋人まで居る。そんな大事な友達を失いたくないのに俺の口調はいつも淡々としていている。冷徹に思える様な事もしばしばあった気が・・・。
「アイツ等、俺の事どう思っているのだろうか?」と口に出して言ってみた。
こんな俺にも彼女、詩織がいる。詩織には迷惑を掛けてばかりの様な気がする。彼女はいったい俺の何処に惚れたのだろうか?いまだに疑問だ・・・、彼女から告白された、今俺がいるこの木の側で。自分が記憶喪失である事を告白された時に伝えていた。
だが、その時、彼女の表情は一瞬淋しげだったのを今でも覚えている。どうしてなのかは、今でも分からない。
記憶喪失の事を宏之、慎治、隼瀬、涼崎達にだけ教えてもある。知っているのは奴らだけ、他の同じクラスの奴は誰も知らない。色々な事を考えているとチャイムが鳴り始めた。
『キーン、コンーカーンコンーキーン、コンーカーンコンー』
このチャイムを聞くのはこれで三回目だな。三時限目も終わったようだ。
そう、二時限目に続き三時限もサボっちまった。まぁ~、そのお陰で色々考えることが出来たし、よしとするか。
「ハぁ~~~、でもどの面下げて教室に戻ろうか?
あんな事になったんだ。クラスの奴らだって良い気分じゃないだろうし。
今日はこのまま早退した方が無難かもな・・・、それじゃ何の解決にもならない。皆に謝ったほうが、後でスッキリする」と自問自答を繰り返していると、
「貴斗君ッ!」と強い口調で俺を呼ぶ声が聞こえた。
それを聞き立ち上がって振り返ると、険しい顔で走ってくる詩織と香澄が見えた。
声の持ち主は詩織の方であった。走ってきた詩織が俺の前に立つ。それから・・・。
『ビシッ!』といきなり平手打ちを喰らわしてきた。
「貴斗君ッ!貴方、自分がいったい何したか分かっているのですか?」
何故か彼女は涙交じりでそう訴えて来た。俺には彼女、詩織が何を言っているのか全然理解できないでいる。隣に駆けつけてきた香澄がそれを見て詩織の行動を止められなくて、まずったと言う顔つきになっていた。
「詩織、どうしたんだ。急に?」
平手打ちを喰らったにもかかわらず頬をさすりもせず冷静に彼女に俺は問いただす。
「翔子お姉さまを泣かせておいてどうして、そのように冷静でいられるのですか?・・・、翔子お姉さまの気持ちもお知りにならないくせに」
詩織は怒った口調で言葉を言い切った。そして、また涙を流しながら俺を睨み付けた。
「お姉さま?」
彼女が言った『お姉さま』と言う言葉を不思議に思いながら言葉を続ける。
「詩織の姉なのか?」と短絡的かつ単純なことを聞いた。
沈黙するだけで彼女は何も答えてはくれなかった。そんな沈黙の中、一緒に来ていた香澄が代わりに何かを話し始めた。
「詩織には弟がいるけど」
「知っている」
「口を挟むな、バカ貴斗。翔子先生は・・・、いえ、翔子ネエは」
香澄は先生を姉と言う言葉に言い直して話を続ける。
「しおりンにとっては本当のお姉さんと思えるくらい大事な人なのよ。アタシにとってもね」
「詩織にとってもオマエにとっても大事な人・・・?お前ら幼馴染みの様な物なのか?」
「様なものじゃなくて幼馴染みなの、貴斗」
〈アンタが記憶喪失でなければこんな事にはならなかったはずだわ〉と思っていたが、けして彼女はそれを口に出す事はなかった。
「・・・、詩織、隼瀬、ゴメン」
「貴斗クン・・・」
サッキまで沈黙していた詩織が再び口を開き話し始めた。
「謝るお相手が違います」と彼女は涙を拭きながら冷静にそう言ってきた。
「分かっている」
彼女を泣かせてしまった事に対して謝罪を含めていたが、恥ずかしくてそこまでは口に出してはいえなかった。
「しおりン、今の貴斗のゴメンはしおりンを泣かせた事に対して謝ってんのよ」
俺の心を見透かしていたのか隼瀬は余計なことを詩織に口走った。
「これだけは信じてくれっ先生を泣かすつもりは全然なかったんだ。なんかいつも先生と面と向かって話すと、その・・・」
最後、口篭って何を言っているのか詩織も香澄も聞き取れなかっただろう。
「貴斗君がちゃんと翔子お姉さまに謝ってくださるのなら信じてさしあげます」
まだ涙が残っていた顔で笑顔を作り俺にそう言って詩織は返してくれていた。
「出来るだけ努力する」
「駄目です、絶対お謝りしてくださいね。そうしないと、お許し、しませんから」
詩織はきつく俺に言い聞かせる。それを聞いた俺は苦笑するしかなかった。
「所で、何で二人ともココに来たんだ」
二人に問いかけると香澄がココに来た経緯を簡単に答えてくれた。
「理事長が俺を呼んでいる?」
「そうよ、早く行った方がいいんじゃないの?」
「ああ、分かった、サンキュッ!詩織、隼瀬、また後で」といって俺はその場を後にした。
藤原貴斗は理事長室の前に立っていた。だが入室するのを躊躇している様子である。ココまで来たのはいいものの、俺は理事長室に入るのを躊躇っていた。
普通、何かしでかしたら指導室で生活指導担当の御剣に説教を喰らうのが関の山だが・・・、理事長室に呼ばれている。
室内にいるのは勿論、理事長のはず。理事長自ら説教をしようと言うのだろうか?
それとも退学の言い渡し?そうだな雇っている教員を泣かしてしまったのだから経営者が文句を言うのも当たり前かもしれない。そして、俺は意を固め、扉を叩いて入室する。
「3年工学科C組、藤原貴斗です」
自分の名前を言い終えると理事長が座っている。机の前へと立つ。
理事長室には理事長が俺に背を向ける形で椅子に座っていた。その隣には藤原翔子がこちらを見据える様に立っていた。
「君が藤原貴斗君かね?」
この学校の理事長は椅子から立ち上がりながら、俺を確認するかのような質問を投げかけた。しかし、理事長は背を向けたまま。それに対して俺は簡単に返事をするだけだった。
「ワシは、この学校を経営する理事の藤原洸大じゃ」
「知っています」
「オッホン、そうじゃったか」
その理事長は態とらしい咳払いをして俺の言葉を受け流した。
「貴斗君、君はなぜココに呼ばれたのか分かっておるのか?」
「理事長自らの話ですから退学ですか?」
冷淡に応答したが相手が理事長と言う事で極力丁寧な言葉で言ったつもりだった。
「フム、君は少し物事を短絡しすぎてはいないかなね?それ程、君は素行不良であるのか?」
理事長は言葉一つ一つに重みを利かせて俺に尋ねてきた。
「それを決めるのは・・・、第三者。俺じゃない」
「ウム、貴斗君の言うことも一理あるのじゃがそれが正しいとは言い切れんじゃろ」
洸大は立派な銀色の顎鬚を摩りながら柔らかな口調で答えを返してきた。その動作が窓に映っていたので俺にも窺い知れた。
「用件はいったい何なのですか」
なぜか、この場にいるのが辛くて急かす様に理事長に聞いていた。
「貴斗君、黙って最後までお聞きなさい」
隣に立っていた新米教師が諌める様に俺にそう口にしていた。
「まあ、まあ、翔子、落ち着きなさい。貴斗君もそうセッカチにならなくても良いじゃないか」
俺はこの時、理事長が先生を名前でしかも人称なしで呼んでいたのに気づき不思議に思った。この様な教育の場で特別な関係でない限り普通は人称付きで呼ぶはずだと俺は思ったからだ。たとえば〝翔子先生〟とかな。だが、俺の考えなどよそに理事長は自分のペースで話を進める。
「時に、君の事情は全て周知のうちじゃ気の毒じゃと思っているのだが・・・・・・、君は、考えた事ないのかね?なぜ、君がこの学校に居られるのか。なぜ、君には住む場所が与えられているのか。なぜ、生活に困ることがないのか等じゃ」と次々に言い終えると彼は俺の言葉を待った。
「言われなくてもやってみたさ。でもっ、手がかりになる物なんて何一つなかった。
電気、ガス、水道、電話。使っているはずなのに・・・、一度だって請求書が来たためしがない。各会社に電話で問い掛けたって、何か根回しされているかの様に、何一つ教えちゃくれなかった。それに付け加え、日本に帰ってくる前までの記憶・・・、一切ない。
18年間の記憶が何一つないんだ。俺の名前だって定かじゃない。俺と空港まで一緒だった麻里奈さんと言う人が俺の名前を教えてくれなかったら・・・、名前だって知らないままだったんだ。こんな俺に、どうしろってんだよっ」
いつの間にか俺は記憶喪失に対する苛立ちから口調が荒れていた。そんな様子の俺を見ていた翔子は〝貴斗ちゃん〟と小さく呟いた。しかし、俺の耳には聞き取れないほどの小さな声。
「そうか、すまん事を聞いてしまったな」
俺が口にした事を冷静な態度で理事長は言葉を返してきた。そして、彼の言葉を受け自分の苛立ち様に気づいた俺は我に返って冷静になる。
「それと、翔子先生といったい何の関係があるんですか?先生の事で呼び出しを喰らった物と思っていましたが?」と俺は自分の疑問を直に口にした。
「ウム、そうじゃったな。しかし、今の君には・・・、その様子、君の今の記憶喪失の状態じゃ、いくらワシが何を言っても信じまい」と顎鬚を摩りながら淡々と語った。
「何のことだ?」
答えを聞きはやったが彼は何も答えなかった。そして暫しの沈黙が訪れる。
その沈黙を破るかのように今までただ、黙って理事長の隣に立って話を聞いていた翔子が堰を切ったように涙を流しながら俺に抱きつき俺の胸に顔を埋める。
「貴斗ちゃんッ!」
その教師は俺の名を確かに聞き取れる声の大きさで〝ちゃん〟付けで呼んだ。それから、俺はその彼女のとった行動をどうしていいか分からずそのまま立ち尽くすだけだった。
それを見た洸大は慌ててこちらに向き直り、
「よっ、よさんか翔子!」と狼狽し彼女の行動を言葉で止めようとした。
「いやです!お爺様。いやです。どうして・・・、どうして?どうしてこんな思いしなければいけないのですか?お父様も、お母様も、お兄様も逝ってしまわれたのに・・・」
俺の胸に顔を埋め泣きながら彼女は洸大理事長の言うことを聞き入れなかった。
「駄目じゃ、それ以上言ってはならん、ならんのじゃ翔子。神宮寺殿にきつく言われておるじゃないかっ!事が納まるか貴斗の記憶が戻るまで、けして、その話をしてはならんと・・・」
洸大は翔子の続ける言葉を遮るようにして口を挟んできた。だが、彼女はそれを無視していた。
「お爺様、私はもうこんな気持ちになるのは沢山です。とても辛いのです」
彼女が涙を流しながらそう言うと俺の顔を見上げていた。
「貴斗ちゃん、3年お会いしない内に大きくなりましたわね。お姉さん、久しぶりに貴斗ちゃんを拝見したとき、とても吃驚したのですよ」
「お姉さん!?ばっ、馬鹿な俺に姉何って・・・?姉・・・・・・・・・」と考え込む。
「そうよ、私は貴斗ちゃんのお姉さんですのよ。ホラ、貴斗ちゃんが首にお下げになっているそのチョーカー。貴方が日本を立つ、3年前にお守りとして私が差し上げたものよ。
同じ形のリストレット持っているのですよ、見て御覧なさい」
彼女は同じ形の飾りの付いたリストレットを俺に見せた。
自分のチョーカーを外して見比べ、何かを必死に思い出そうとするが・・・、しかし・・・・・・。
「うグッ・・・、アッ、頭がぁ痛むぅ」
あまりにも酷い苦痛で顔を歪めそう言って急に理事長室の床に倒れ込んでしまった。
「貴斗ッ!」と彼等は名前を呼び叫んだが俺の耳には届かなかった。
慌てて翔子は貴斗を抱き起こすが何の反応もしめさない。洸大は急いで内線を使って保健室に連絡をとる。
「もしもし理事長室の洸大だッ!」
「洸大理事長ですか、どうなさったのですか?その様な慌てた声を出したりして」
「シッ、至急理事長室まで来てくれ、早く、早くじゃっ!」
洸大はそう言ってから電話を切った。
* * *
保健室のベッドの上で静かに寝息を立てている貴斗。
洸大は彼が倒れたいきさつだけを話し一切余計なことを言わなかった。
「詳しいことは専門でないので申し上げられませんが・・・、彼の意識下の衝突で起きた気絶と考えられます。暫くすれば、目を覚ますでしょう。それとまた記憶の混乱を引き起こし同じ結果が出ないとは限りませんので・・・、洸大理事長と、翔子先生にはこの場から離れた方が宜しいかと」
「そうか・・・、それでは後は君に任せることにする。よろしく頼んだじゃぞ」
「・・・・・・・・・、私が看病していては駄目なのですか?」
「翔子ッ!いい加減にするのじゃっ。ワシとてお前と同じくらい辛いのじゃ、分かってくれ。ワシの大事な孫なのだから」
「お爺様・・・・・・、我侭言って申し訳御座いません」
そう言うと渋々翔子は保健室を退室した。洸大もそれに続いて退室する。
時間が過ぎ放課後、全ての経緯を聞いていた詩織と香澄が保健室の貴斗の眠るベッドの横に座っていた。
「貴斗君、チャンと目をお覚ましになりますよね?」
「心配ないってしおりン大丈夫に決まってるって。
案外、目を覚ましたら記憶喪失も直っているかもよ」
彼女は詩織を励ます様な口調で返答をする。香澄の答えに笑顔で詩織は頷いた。その二人がベッドの前で静かにお喋りをしていると呻き声が聞こえた。
「ウッ、ウゥゥゥウウウウウウっ、ココは・・・、どこだ?」
彼は回りを確認し詩織と香澄がいることに気づく。
「貴斗君!」
「貴斗、やっとメぇぇ覚ましたわね」
詩織は心配そうな表情で香澄はヤレヤレという表情で目を覚ました貴斗を迎えていた。彼は頭を抑え小さく呻きながら身体を起こす。それを聞き取った詩織が心配そうに尋ねる。
「起きても大丈夫なのですか?貴斗君」
「問題ない。如何して俺はココに居る、それに今は何時だ」
「アンタ腕時計、持ってないの?」
「教室のカバンの中だ」
「腕時計は腕にするものでしょ?」と苦笑しながら言葉を続け、
「今は放課後、もう直ぐで5時30分になるわね」
「そっか。それでなぜ俺はココに」
「アンタ、理事長室で話している最中に倒れたみたいよ。ちゃんと翔子ネェには謝ったの?」
貴斗が理事長室に行った本来の目的が達成できたかどうか香澄はそれを尋ねていた。
「ゴメン」とそう貴斗が言うと香澄ではなく詩織が、
「ゴメン、ってどういう事なのですか、貴斗君?」と彼の返答に対して聞き返してきた。
「理事長達と何を話していたか全く思い出せないんだ」
「エッ、それって何、またアンタ、記憶喪失?ハ~~~また振り出しに戻っちゃったか」と落胆して溜息を香澄は吐いていた。
「貴斗君、本当に何も覚えていないの?」
「アッ、アぁ~~~」
「しおりン、無理に思い出させるのはやめましょ、貴斗また倒れちゃうかもよ」
「うっ、うん」
「もう何ともないから、ココに居てもしょうがない、俺は帰る。
二人はどうするんだ、部活は?」
「アタシ達、今日は部活ないのよ。ネッ、しおりン」
「明後日から夏休みですから今日と明日は部活オヤスミなんです」
「久しぶりに、一緒に帰りましょうか?そうしましょ、しおりン」
「そうですね、貴斗君の事、まだ心配ですし」と可愛く微笑みながら詩織は貴斗を見た。
「もう大丈夫だ」
彼は恋人の気持ちなど察する事も無く言葉を返していた。
それから、貴斗はベッドから身体を出し上履きを履き、保健医に一言礼を告げると保健室から退室して行く。詩織と香澄もそれに続いた。
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