向こう側
蒼桜
向こう側
蝉が大合唱するせいでジージーという騒音になっている。駅のホームは狭く、屋根があるにも関わらず俺の肌をじりじりと焼いていた。体温の移らない安っぽい素材でできた椅子にじっと座り続ける俺を、駅員さんは見て見ぬふりをしていた。田舎の電車は短い。二両しかないそれから乗り降りする数人を見ながら、俺はある人を待ち続けていた。一時間おきにしか来ない電車。来る度に身構える俺に、ようやくその時が訪れた。
滑り込んできた電車から降りてきたのは、待ち焦がれていた彼だった。
「賢人さん、お久しぶりです。一年ぶりですね」
変わらない笑顔とともに、ゆるゆると手を振る。そのあまりに懐かしい姿に、自然と目元に涙が浮かんだ。
「あぁあぁ、せっかくの再会なのに泣かないでくださいよ」
そうやって頬に添えられる手。しかし、その手によって涙がせき止められることはなく、俺の頬を滑り落ちていく。
「どれだけっ、奏多くんに会いたかったか…っ」
「えぇ、見てました。ずっと」
世間は奏多くんを忘れたように、いつも通り動いていく中で、一人枕を濡らした夜。机に突っ伏して嗚咽を漏らした日。形見として返ってきたネックレス。毎日毎日思い出していた、彼。忘れることの出来なかった彼。
「今日は挨拶しに来ようと思って。ちゃんとさよならを言えてなかったので」
「…え、」
さよならを言うためにここに来たの?そんな挨拶、して欲しくなかったよ。知らせを聞いてから俺はずっと奏多くんを待ち続けて、待って、待って、毎日奏多くんを忘れないように動画も見返して…!!
すっと、唇に人差し指が添えられた。感覚はないのに、目の前の空気が僅かに揺れるから、分かる。
「賢人さん。気持ちは分かります」
生前と同じように、にこりと優しく微笑む。その姿が、どうしようもなく愛しくて、抱きしめたくて、でも空気を掻き抱く結果になることは、目に見えている。
「賢人さんは俺を、忘れ去りますか?」
そんなはずない、なんて言えない。日に日に自分の中で薄れていく奏多くんの笑顔、仕草。俺は歳をとるのに、彼の時間は止まったままだ。俺は、一緒に時を歩んで行きたかった。
「だから、こちらに来ようとしたんですか?」
…あぁ、そうだよ。奏多くんの時間が止まったなら、俺の時間も止めればいい。そんな風に、思ったんだ。
でも彼はそんな俺を諭すように言葉を続けた。
このホームのように、新しかったはずのものは錆びて廃れていく。手入れのされていない電球はチカチカと音を立てながら瞬く。“忘れ去られる”とはこういうことです。誰にも気にかけてもらえず、覚えられることもなく、でも、存在は確かにあり続ける。
「賢人さんはそれを、哀しいと思いますか?」
…分からない。俺自身が忘れ去られるとはどういうことなのか、俺が奏多くんを忘れ去るというのがどういうことか。でも分かるものもある。全てのものには思い出が詰まっている。このホームにだって、奏多くん自身にだって。それが存在するということだ、確かに彼が存在したという証だ。
「なら。俺の存在を消さないでください」
「思い出さなくてもいいですから、賢人さんの中の俺の存在を、絶対に、消さないでください。」
ホームにアナウンスが流れた。それと同時に、ゆらゆらと後ろ歩きで奏多くんが、笑顔のまま遠ざかっていく。彼の透けた姿の後ろで、茂みが揺れた。
「さようなら」
滑り込む車体に、彼の名残りは、風に乗った煙のようにかき消された。
蝉の声だけが、響いていた。
向こう側 蒼桜 @Ao_733
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