第73話 一肌ぬいで

「こんにちは! 初めまして。私、綾小路雪子と申します」

 一時間くらいで、と言っていた綾小路がそれよりも15分も早くやって来た。


「きゃー、尾上君のお母様って、本当にお若くしていらっしゃるのですね」

 僕があれほどそういう話はしない様に、って言ったのに。


 知らないからな。


「初めまして。悟の母、麻子です。よくいらっしゃいました」


「お母様って私よりもひょっとして若く見えますよ。ほら、私って昔から生活が乱れてたから老けるのが人より早いかもって」


「そんなことないわ。雪子さんでしたっけ? 私は悟を二十五の時に生んでいるから。あ、計算はしなくていいわよ」

 母さんが冗談を言っているうちは大丈夫だと思うけど、この手のギリギリの会話は聞いていて心臓に悪いな。


「まあ、立ち話も何なんで、中に入りなよ。お前んちとは違って狭いけどな」


「あー、アタシんちはどうでもいいよ。そんな比較なんてしないって」

 態度もでかいし、見た目も派手なんだけど、綾小路は地元の名士の娘だからどうも卑屈になってダメだ。


「雪子さん、ここまで歩いてきて暑かったでしょう? 冷たいものでも今入れるから。中にお入りくださいな」


「はい、それではお言葉に甘えてお邪魔します」

 躾はしっかりされて育っているから言葉遣いはTPOで使い分けられるのが綾小路の凄いところだ。


 リビングのソファに綾小路を通して、台所で母さんが「麦茶が入ったわよ」というので取りに行った。


「何にもないけどさ、麦茶を飲めば少し涼しくなるだろう」


「ありがとう。アタシ麦茶は好きなんだ」


「それは良かったわ」

 母さんは台所で応えた。


「それはそうと、お前んちの前に駅前の洋菓子やの袋が落ちててな、中にケーキが入ってたんだよ。悪いけど、これ棄てておいてくれ」


「誰がこんなもの棄てて言ったんだろうな……って、まさか」


「多分そうだろうな。りおんがパニくって落としていったんだろう。

 姉小路から渡された洋菓子店の半透明のレジ袋から透けて見える白い小さな箱からは少しチョコレートの匂いがした。

 びっくりさせてしまって、曉子さんには申し訳ないな。


「ちょうどよかったわ。私名古屋から悟にお土産で『きよめ餅』買って来たんだわ。この子が名古屋に住んでいる時に結構好きでね」


「母さん、麦茶にきよめ餅はちょっと」


「お茶も入れるわね。麦茶は身体のほてりを取るものよ。お菓子はお茶が当たり前じゃない」


「お母様、本当にお気遣いなく……でも、きよめ餅ってどんなのですか?」


求肥ぎゅうひに小豆餡が包まれている、本当にシンプルな和菓子ですよ」


「私求肥大好きなんですよね。ありがたく頂戴します」


「それは良かった」

 

 母さんがきよめ餅とお茶をもってくると、話は始まった。


「りおんはああ見えて脊髄反射的にふるまうところがある。いつだったか『堕天使』でスケベじじいに絡まれたとき、腕をひねりあげて無茶苦茶怒っていた時があってな」


「ええ、そんなことするの?」


「そりゃアタシだってびっくりだよ。だから今回のこともよく確かめもしないでケーキを放り出して家に逃げ帰ったんだろうな。当然りおんの母親はどういう経緯かは知らないけど、お前に会ってもいいと一度は許したのに、お前に他の女が居たって聞く羽目になるわけだ。すると、あの母親の反応はどうなる?」


「僕をまた悪者にするよね。たぶん」


「多分じゃねえって。お前が言い訳をすればするほどあの娘の母親はお前を攻撃するだろうね」

 分かっているけど、曉子さんのお母さんは良くも悪くも一途な性格の持ち主みたいだから、今回のこの件も娘である曉子さんをいかに守るか、その一点で僕を攻撃するのは想像できる。


「で、どうすれば」

 姉小路は少しいたずらな表情をして、母さんの方に視線を向けた。


「少しお母様にもひと肌脱いでいただきたいなって」


「え、私が? ひと肌って? 脱ぐの? 何を?」

 急に話を振られた母さんは、バカなこと言いながらびっくりして開いた口がふさがらなくなっていた。

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