第39話 柔らかいなにか

 二人で淀みなく小説の話をし続けていると、やがて夜が明けてきた。

 「鴨下硯」について熱っぽく語る東堂さん。

 

 それが僕なんだ、と何度か口に出かかったけど、何故か言う事ができなかった。


 Webの小説投稿サイトでは、選んだジャンルが文芸なのもあってあまりPVもつかないし、ましてや応援のコメントなどほとんどもらったことがない。


 ただ、明治時代の北海道開拓史を描いた、僕の処女作「雪の下の戯れ」の10話目に「日出天子」ってペンネームの人から熱心なコメントをいただいたことを思い出した。

 ひょっとして東堂さんだったりして。


 コーヒーを何杯お代わりしたことだろう。


 東堂さんは自分が好きなだけ話し切ったようだった。

 

 楽しい時間もそろそろ終わりなのかな。


 短い沈黙の後、


「今日は予定ないんですよね?」


 東堂さんが何気なく聞いた。


 いつもの土曜日だったら、一週間分の洗濯物もあるし、一人暮らしには無駄に広い一軒家を掃除もしなければならない。


 僕は小さなウソをついた。

 

「特にやることはないかな」


 ぱっと東堂さんの顔が明るくなった。


「あの……もし覚えていてくれていたら……」


「えっ?覚えていたら?」


「昨日電話で土曜日デートしたいっていったでししょう? あれはもう無効ですか?」


 デート……だと……?


 昨晩から色々ありすぎてなんか錯乱してるな。ぼく。


「も、も、もちろんだよ。で、何をするの?」


「叔父の誕生日プレゼントを買おうかと。付き合って下さいますか?」

 吉永部長の誕生日、近かったんだ。


「部長の誕生日ならなおのこと。一緒にいこう!」


「ありがとうございます!」


「ありがとうはこっちのセリフだよ。こんなに長い時間、曉子さんと一緒に居られるなんて」


 東堂さんはそれを聞いて顔を赤らめて下を向いてしまった。


「そう決まったら、一旦家に帰らないとね。何時に待ち合せようか?」


「は、はい! そうしましょう。ええと、新宿南口に10時くらいではいかがですか?」

 

「うん、大丈夫。寝不足大丈夫?」


「大丈夫ですよ。悟さんこそ本当に大丈夫ですか?」


「大丈夫だよ」


 僕らはファミレスを出て、スマートフォンのアプリでタクシーを呼んで、最寄りの駅でまで乗っていった。


 ホームに上がると、各駅停車が間もなくやってきた。

 

 土曜日の5時台の上りの各駅停車はやはりガラガラで、いや、僕たちが乗った車両は乗客が一人もいなかった。


 僕たちは車両の真ん中らへんの7人かけのロングシートに二人、ぽつねんと座る。


 この電車で4つ目の駅で東堂さんは降りる。

 

 僕はそこからまた3つ目の駅で降りることになっている。


 電車に着席すると、いきなり睡魔が襲ってきた。

 ジェットコースターのような金曜日の夜を乗り越えた安心感なのかもしれない。


 いかんいかん。

 東堂さんが降りるまでは少なくとも寝ることはできない。


 ふと、隣を見ると、静かな寝息を立てて東堂さんはすでに寝てしまっていた。


 電車が少し揺れた。


 東堂さんの頭が、僕の肩に寄り掛かった。


 サラサラとしたアッシュグレーの髪。

 

 長いまつ毛が上から見るとよくわかる。


 このアングルから見ると、鼻がすごく高い。


 そして東堂さんは柔らかい。


 ずっと、このままでも構わない、そんな邪な考えが何度もよぎったけど、次が東堂さんの降りる駅になってから、


「曉子さん、曉子さん」


 と肩をトントンと叩いて起こそうとした。


「悟……さん」


 彼女はまだ夢うつつを行ったり来たりしているようだった。


「そろそろ曉子さんの降りる駅ですよ。大丈夫ですか?」


「あ、あ、はい! すみません、悟さんに寄り掛かってしまっていたようで」


「あははは、大丈夫だよ。そんなこと、気にしないで」


「悟さん……」


「なに?」


「大好きです」


 突然のことで僕は呆然としてしまった。


 彼女は僕に腕を回して口づけをすると、すっと立って、


「また後でね」


 と言って電車を降りて行った。


 東堂さんが去ってなお残る唇の柔らかな感触。


 僕の眠気は、どこかに行ってしまった。

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