一の二 宿酔
釣り糸はうんともすんとも言わない。魚など釣ってなるものかと強情を張っているかのようだ。魚のほうでも意地っ張りの釣り糸にはかかりたくなかろう。
眠気を誘われ、伊佐那は舟底に横になった。ちゃぷん、ちゃぷん……。舟が揺れている。
胃の腑がざわめき始めた。ざぶん、ざぶん……。
舟がひどく揺れ始めていた。
陸に引き上げられた魚のごとく舟底から跳ね上がると、伊佐那は縁にしがみついた。
ぱちりと目が覚めた。
両の手は舟の縁をつかんでいる。胃の腑はざわめいている。
水底にむかって、伊佐那は胃の中のものを盛大に吐き出した。出るものは酒だけである。
釣りは夢であったかと見まわすも、相変わらず伊佐那は舟に揺られている。
夢では海に釣り糸を垂れていたが、うつつには濠に浮かび、濠端には芽吹いたばかりの柳が生えている。舟は流されていた。
はて、どういうわけあって舟に乗ったものか。
酒を飲んだところまでは覚えている。一仕事終え、金が入ったので、酒をしこたま飲んだ。酔いがまわってひと眠りするかと通りかかった濠端につないであった舟の底に横になったというところだろうか。最初からつないでいなかったのか、伊佐那がやったのか、もやいはほどけ、舟は川面に浮かんでいた。
濠端に戻ろうにも、櫂がない。細長いもの――刀で代用できるかと腰をさぐって刀がないと青くなった。一呼吸し、腰に刀のあるはずはないと思い至った。いくら泥酔していても刀は腰から外して頭近くに置いて寝る。
伊佐那は舟底をさぐった。頭を置いていた場所に刀はなかった。もうひとつ、なくなったものがあると伊佐那は気づいた。腕だ。
伊佐那の右腕は肘から下が欠けている。起きている時はつけている義手を、横になる時には外して「腕枕」にしている。枕にしたはずの腕も消えている。
さては酔って眠っているうちに腕と刀を盗まれたか。
腕は放っておいても向こうから伊佐那を探しにくる。
刀はどうするか。
刀は大事な商売道具だ。
伊佐那は龍を狩る。伊佐那のような龍を狩る人間は「おかみと」と呼ばれる。「おかみ」は古の言葉で龍、「と」は屠るの意だ。
龍は人を襲う。龍を相手になす術のない人々は、伊佐那のような「おかみと」を頼る。雇い主は絶えず、仕事はありあまるほどある。
龍を一匹狩るごとに大金が入る。二、三匹も狩れば数年は遊んで暮らせる。実入りはいい商売だが、長くは続かない。
龍に食われてしまうからだ。伊佐那も何度も食われかけた。
伊佐那は刀一本で一丈(約三メートル)もの龍に挑む。伊佐那は腕のたつおかみとだ。しかし、いくら腕がたつとはいえ、肝心の腕と刀がなしには商売が成り立たない。
脱いだ着物を腰ひもで頭に結び付け、ふんどし一丁で伊佐那は濠に飛び込んだ。酔い覚ましにはちょうどいい水の冷たさだ。濠端にあがり、身支度を整えた伊佐那は市場へ向かった。
市場にはすべてが集まる。その出処は問われない。盗品ですら取引される。盗まれた刀は市場にあるはずだ。
刀を盗んだのは大方、洛中をうろつく子どもだろう。すり、かっぱらい、盗みなどお手のものだ。泥酔して眠りこけている伊佐那から腕と刀を盗むなど、お茶の子さいさいだったはずだ。盗んだ物は市場へ持ち込まれる。買う方も、盗まれた物だと承知のうえで金を払う。
初めて買った刀も市場で求めた。あれも盗品だったかもしれない。安くはなかったが、高くもなかった。十三の時だった。
親もきょうだいも親類縁者も遊び仲間も住処も、何もかも、龍に襲われて失った。天涯孤独の身になった伊佐那は、龍への復讐を誓った。殺された村人ひとりにつき龍千匹を殺す。村から村への放浪の旅を続け、日雇いの野良仕事をして食いつないだ。最初の龍は鉈を振り回して狩った。村人に感謝されてもらった金と貯めてきた金とをあわせて市場で刀を買った。その刀はもうない。十年も月日を経れば十本の刀が要った。
盗まれた刀は何本目だったか。大金を払って知り合いの刀工から求めたものだった。高いだけあって、いい仕事をしてくれた。何匹もの龍があの鋭い刃に切り裂かれてきたことか。
一目惚れだった。刀身に浮かび上がった炎の紋様。刃先をこぼれる炎に焼かれる龍の姿を思い描いて体がわなないた。走る炎の紋様から「野火」と名付けた。
買い戻せるものならば――一縷の望みにかけながら、伊佐那は人の波をかきわけ、店から店へと渡り歩いた。しかし、運がなかった。あれほどの刀だから、すでに誰かの手に渡ってしまったのかもしれない。
ならばと伊佐那はめぼしい刀を探した。だが、どの刀も気に入らない。あれがいけない、これが足らんと難癖をつけては店を後にする。
「旦那、そんだけ注文が多いってことば、お目当てのもんが頭ん中にあるんだろ」
それまで親身になってあれやこれやと品物を勧めてきた店の主人の態度が横柄になった。
「欲しいものがあるってんなら、
男の言い草には含みがあった。
教えられた店に行くと、立派な太鼓腹の男が愛想よく出迎えた。店前にはさまざまなものが並べられてあった。帯紐、漆のはがれかけた櫛、鼻緒だけがつけかえられた下駄……一目でくず物だとわかる品々だ。中に刀もあった。黒漆の鞘に浮かび上がる数々の傷が織りなす文様に見覚えがあった。伊佐那の刀、「野火」だ。
「おい、主人。この刀、もらいうける」
「へいへい」
相盛は値を告げた。それなりの値がついていた。盗まれた己れの刀と判っていながら金を払って取り戻すのは腹立たしい限りだ。金はまだ残っていたはずだと懐を探った伊佐那は、一文無しだと気づいた。
「旦那、お目が高いねえ。これはいいもんですよ。こういった刀はねえ、なかなか出てこない。たまに出回っても、この値ではなかなかねえ。大店で求めようとしたら倍の値はするでしょうねえ」
相盛は上機嫌である。
「珍しいものなんですよ。刃にね、おもしろい紋様が浮かんでいるんです」
「知っている。俺の刀だからな」
「へえ、左様ですか」
相盛はうそぶいた。盗品と知りながら片目をつぶって買い取り、売りさばいている商売を長く続けているだろうだけあって、肝っ玉がすわっている。
「お代をいただきます」
「盗まれたおのれのものに金を払ううつけがどこにいる」
相盛はふうとため息をついた。
「いけませんよ、旦那、嘘言っちゃあ。金はねえけど、刀は欲しいってんで、盗まれたものだって言うんでしょう」
相盛はそそくさと刀を店先から引き揚げようとした。その手を伊佐那は素早くつかんだ。
「俺の刀だ。返してもらおうか」
「売りもんですよ。欲しければ金を払うんですな。それが市場の約束事だ」
「盗人猛々しいな」
「人聞きの悪い。なんだって、盗まれたものだって判るんです」
「名が……刻んである。俺の名だ」
口ごもりながら伊佐那は言った。
「曽久……という」
「曽久……それが旦那の名だという証はあるんで?」
「証のたてようがない。名をくれた親は死んだ」
「旦那……嘘言っちゃなんねえよ。あっしが何も知らないとでも? 曽久といやあ、名だたる刀鍛冶だ。曽久と銘の打たれた刀をこちとらいくらでも見て来たんだ。それもみんな、旦那の刀だっていうんですかい?」
小手先の策は通用しなかった。
「曽久の打つ刀は二つとない紋様を生む。俺の刀は炎の紋様だ。鞘から出して見てみるといい。見てから炎のようだと言ったのじゃないかと言うなよ」
伊佐那に言われるがまま、相盛は刀身を鞘から引き出した。ひゅいっと風を切る音がたった。日の光をうけ、刃がぎらりと光る。刀身にはうなりあげる勢いの炎が走っている。
「あっしには波にしか見えませんがね」
相盛は刀を鞘に収めようとした。伊佐那は、柄ごと相盛の手をつかんだ。
「返してもらおうか」
「金を払えば売りますよ」
「盗人に払う金はない」
「あっしが盗んだのじゃないんで」
「盗品を買って売れば盗人も同然だ」
「盗品とは知らなかったんですよ」
「もう知っただろう」
「でもねえ、旦那。あっしはなにがしかの金を払って買い取ったんですよ。盗まれたものだから返して欲しいと言われて、はい、そうですかと言って返してしまったら、あっしは損するばかりだ」
「いたしかたなかろう」
「ねえ、旦那。あっしが金払って手に入れたものを、それは盗まれた自分のものだから返せと無理強いするのは盗人と同類なんじゃないんですかねえ」
ぐうの音も出ない。伊佐那は思いあぐねたあげく「金は払う」と持ち掛けた。
「俺はおかみとだ。龍を退治すれば大金が入る。その金を全部やる。だが、その刀がない限り、龍を退治できない。だから、まず、刀を俺に返せ。龍を退治したあかつきには必ず支払いに戻るから」
我ながらいい思い付きだと伊佐那は自画自賛したが、相盛は一笑に伏した。
「必ず龍を退治して生きて帰ると天地神明に誓って請け負えるんですかねえ? 返り討ちにあって食われるのが落ちなんじゃねえんですか」
「俺は腕のいいおかみとだ」
「旦那。そういって支払いに戻ってこなかった連中がいるんですよ。やっぱり旦那と一緒でね、先に刀を渡せ、龍を退治したら金を払うって息巻いて。あっしもこの商売を始めたばかりの頃は意気込みに惚れて信じてやりましたよ。ですがね、誰ひとり、戻ってこなかった。龍に食われたか、金をもってずらかったか。どっちにしろ、もう生きていやしねえでしょう。だからねえ、刀が要るっていうんなら、金を払ってほしいんですよ、今すぐにね。おや、どうしたんです?」
柄ごと相盛の手をにぎる伊佐那の手に力が入った。相盛の手ごと柄をひけば刀が鞘から抜ける。伊佐那の心の内を読んだものか、相盛の顔が歪んだ。
「どうしようってんです? あっしを切って、刀を奪って逃げますか? そんなことをしたら、旦那は盗人にくわえ、人殺しになっちまいますよ」
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