第34話
34 バック・ギア
「うっ……うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーっ!?!?」
人間はビルの3階相当である10メートルの高さから落ちた場合、下が舗装路であれば50%の確率で死亡するという。
残りの50%は、重傷。
いずれにしても、捜査の打ち切りは免れないだろう。
神はサイコロを振らない。
星の数ほどいる人間の行く末など、どうでもよいからだ。
ロックは最後の瞬間まで、
最後の最後まで、
だからこそ神は、興味を示したのかもしれない。
この少年の、行く末に。
ばさっ……!
なんとも緊張感のない音とともに、傘が開いた。
地面から強く吹き上げてきた突風を受け、落下速度がガクンと落ちる。
「な……!?」
ロックは自分の身になにが起きているのか理解できず、広がった傘の裏側を見つめ、ただただ目をパチクリさせるばかり。
タンポポの綿毛のように漂いながら、ふたりはアパートメントの裏庭にふわりと着地した。
「た……助かった……!」
ロックは精魂尽き果て、そのまま床にゴロンと大の字になる。
すぐ近くでパトカーのサイレンの音と、「こっちに落ちたぞ!」と警察らしき集団が向かってくる足音が聞こえた。
「に……逃げ……」
しかしもう起き上がる気力どころか、指一本動かすだけの力も残っていない。
その抜け殻のような身体が、そよ風のようにさりげなく、しかし確かなる力で持ち上げられる。
「さて、選手交代です。あとは、わたくしに任せてください」
ロックは薄れゆく意識のなかで、微笑みを見た。
それはいつもと同じで鼻持ちならないものだったので、ロックもいつも通り、ヘッと口を歪めてみせた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ロックが次に目を覚ましたのは、ベイカー街にある下宿の自室だった。
ベッドの傍らにはワットがいたのだが、「気がつきましたか」と嬉しそうでも嬉しくなさそうでもない、いつもと変わらぬ反応だった。
「ずっと寝ていましたから、お腹がすいたでしょう。ポリッジと……」
ロックは起き抜けだといのに、遮る勢いで口を開く。
「ずっと寝てたって、どのくらいだよ!?」
「昨日の夜にここに帰ってきてから、まる一日ですよ」
ロックが窓を見やると、意識を失ってから一分すら経っていないような、変わらぬ夜の帳が降りていた。
「ポリッジとチキンスープ、どっちを召し上がりますか?」
「どっちもいらねぇよ!」
「食欲がないんですか? でも心配いりませんよ、わたくしのスペシャルレシピはひと口でも食べたら……」
「違うよ! っていうか、病人扱いすんなよ! 捜査の続きをするぞ!」
「ああ、その必要はありませんよ。捜査は終わりにしますから」
その突然の終了宣言に、ロックはベッドから飛び上がった。
「なんだとぉ!?」
今にも飛びかかってきそうなロックを、ワットは「まあ落ち着いてください」となだめて寝かせる。
「今回の事件は、わたくしたちの手には負えないというのがわかりました。
ですのでこれから、依頼主のウイリアムさんに捜査打ち切りの連絡をするつもりです」
「手に負えないって、どういうことだよ!?」
「昨晩、ジェロムさんとその愛人が首をねじって殺されているのを見たでしょう。
ああやって殺したのは、血の匂いをさせないためです。
部屋に入って血の匂いがすると、侵入者であるわたくしたちが警戒すると考えたのでしょう。
おかげで、わたくしもすっかり不意を突かれてしまいました」
口を挟もうとしたロックを、ワットは視線で押しとどめて続ける。
「そうして油断させておいて、セマァシーを不能にするチャフからの爆弾攻撃。
ロックが常軌を逸した脱出方法を成功させてくれましたので、奇跡的に助かりましたが……。
普通はどんな人間でも、あの場で殺されていたはずです」
ワットはより厳しい視線を、ロックに向けた。
「黒幕は当初、
でも今回の刺客は、手口からいって本物……それも、プロ中のプロ……。
『スパイ』と見て間違いないでしょう」
「スパイ……!? スパイってあの『
「それは映画とかに出てくる、伝説のスパイのことですね。でも言うなればそんな者たちのことです。
裏社会において最強の存在と呼ばれる者たちを相手にして、わたくしたちが敵うはずもありません。
それに何よりも、わたくしは黒幕のことを侮っていました」
深く恥じ入るように、うなだれるワット。
ワットがこんなに消沈する様を見せるのは、ロックにとっては傘を折った時以来だった。
「スパイは用心棒と違って金では雇えません。彼らを差し向けることができるのは、巨大な権力のみです。
黒幕のバックにはきっと、強大なる組織が付いているのは間違いないでしょうね。
そんな大層なものを、わたくしどもふたりで相手にするのは、とてもとても……。
今回の事件はNCA、国家犯罪対策庁でないと手に負えない規模の犯罪だと判断しました」
「ですので……」と顔をあげるワット。
そこには、八重歯を牙のように剥き出しにして唸るロックがいた。
「テメェ、見損なったぜ……! ここに来て、
ワットはロックと出会ったばかりの頃のように、なにもわかっていない子供を見るような目をする。
「あなたのお父上も、きっと納得してくださるはずです。
わたくしとの約束だった、ひとつの事件が終わるまでここで暮らすというのも、条件を満たしていると思いますから……」
「うるせえっ! テメェだけは他のゴミみてぇな大人とはちっとは違うと思ってたのに、テメェもゴミじゃねぇか!
それも最後の最後でケツまくるような、最低の粗大ゴミだっ!」
「はい、なんと言われようとも、これは大人のわたくしが決めたことですから」
売り言葉に買い言葉で、ロックはどんどん激昂していく。
「クソ野郎が! おれはひとりでもやるぞ!」
「それはどうぞご自由に。
でもハニーさんを巻き込むわけにはいきませんから、この下宿からは出ていってくださいね。
わたくしも明日の朝にはここを出るつもりでしたので、ロックとはもう会うことも……」
「ああ、出てってやるよ!
テメェは明日と言わず、今すぐおれの前から消えろっ! 次におれの前に現われたら、今度こそぶちのめしてやるからな!」
「わかりました。それではロックの最後の晩餐として、ポリッジとチキンスープを置いておきますから……」
「うるせえっ! うるせえうるせえうるせえっ! いますぐ出ていけっ!」
ロックは反抗期のように怒鳴り散らし、ワットを部屋から追い出す。
今まで感じたことのないイライラに、全身の血が煮えたぎるような思いだった。
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