第23話 ひどく気持ち悪い

 僕の頭が赤城の一言に漂白されてしまってからは結局、その日の僕はずっと何もかも上の空だった。

 真っ白になってしまった頭のまま赤城と共に教室に戻ったところ、ちょうど担任の教師と野崎さんが戻ってきたところで僕たちは合流して、そのまま機材の確認を済ませたはずなのだけれど、その間の記憶は何もなく気づけば今こうして自室でただひたすらに虚空に目を泳がせてしまっている。心なんてどこに旅に出てしまったのか、僕の頭の中にはただひたすらに赤城のあの言葉が巡っていた。


『青山だよ』


 蘇る音の響き。それは何一つの違いもなく、僕の彼女の名前であった。

 そしてクラスの人気者の名前でもあるその名前はひどく、赤城に似合っていた。本来僕なんかであれば隣に立つことは許されない存在なのだと、改めて感じさせられる。

 僕の思考はふわふわと宙を漂って天井に当たって砕け散る。考えていたって何を成すことができるのだと僕の理性が叫びだすが、僕のボンクラな本能にはそれは届かない。

 浮かんでは消えていく思考の行方を目で追いかけて行くうちに、部屋の隅に置いてある金魚の水槽が煌めくのが見える。

 水槽の中には黒い出目金が一匹住んでいて、頼りなく筺の中を泳ぎ回っては時々壁にぶつかる。以前はつがいの和金が二匹、出目金と共に暮らしていたのだけど、つい先日二匹揃って死んでしまったのだ。まるで心中だなとその時は不謹慎にも冗談混じりで思っていたが、今となってはそれさえも何かに投影できてしまいそうで居た堪れない。

 残された一匹の出目金と、暗くて弱い惨めな僕。出目金の彼からしてみれば傍迷惑な話でああろう、僕は彼に自分の影を見てしまっている。

 赤城が突然僕の前に現れて、青山を奪い去ってしまうのではないか。そんな不安に駆られる。

 気色の悪い妄想である。この妄想は青山にとっても亡状を極める行いであり、到底許されるべきではない。青山の気持ちを無碍にして、僕の感情一つで彼女の気持ちを僕の思考の中で穢してしまっている。

 なんて最悪の行為なのだ、ひどく気持ち悪い。

 それでも、青山を信じられないわけではないのだ。僕という人間を信じられない。


 浮いている藻でも食べようとしたのか、出目金が水面を少し跳ねた。ぴちゃん、と音を奏でて水槽内に置かれた石の影へと彼が泳いでいく様を見て、僕は彼と僕が少しも似ていないことに気付く。


「……一緒にして、ごめんな」


 その時、ドアの方から誰かが僕の部屋に近づいてくるのが聞こえた。

 大方母さんが店番の依頼にでも来たのだろうと思って僕は席を立つ。正直今はそれどころではなかったが、しかし何かやることがあって何も考える暇もない時間が欲しくもあったので丁度よかった。

 そうしてドアが開く。


「よっ、元気?」


「な……」


 なんで、ここに。残念ながら言葉は空間に発されることはなく、僕の喉の奥で空虚な意味を成さない単語としてその命を終える。


「ふふん、驚いた?」


「あ、ああ……うん」


 夏休みも終盤に差し掛かり残すところ一週間もなくなってきたその日の夕方、僕の部屋を訪れたのは、青山だった。


 *


 青山は学校で行われる夏期講習を前期同様に後期も取っていないらしく、その裏付けのように後期が始まっても彼女が学校へと姿を現すことはなかった。前期の時は放課後に数回文化祭準備を手伝いに来ていた時もあったけれど後期では今のところ放課後もその姿を見かけていない。

 しかし彼女は今僕の部屋へと訪れている。それになぜかと問われれば、青山が僕の恋人であるからと言わざるを得ないのだが……。

 とりあえず今はそんなことはどうだってよくて、大事なのはなぜなんの前触れもなく青山が僕の部屋を訪れたかであった。

 僕の部屋を訪ねるのは、恋人である以上何らおかしいことでもない。ただ青山は礼儀正しくも僕の部屋へ遊びに来る時は毎回、事前に何かしらの手段で教えてくれるはずなのだけど。


「なんだあ、あんまり反応面白くない」


 目の前の彼女は今悪戯そうな笑みから残念そうな表情へと移り変わり肩をすくめている。

 反応が面白くない、というただの感想であるはずんぽ言葉が今の僕にはやたらと突き刺さってしまって、少しダメージを受ける。


「いや、本当にいきなりで驚いちゃって」


 僕は情けなくも弁明をするように彼女に返事をする。


「ふうん。まあ確かに、ほんとに驚いた時って声も出ないみたいな話あるもんね」


「まあ、そういうこと」


「まあ、間抜けな顔も見れたしいっか」


 彼女は少し悪戯な表情を浮かべてそう言葉を締める。間抜けな表情、という言葉も少し胸に刺さる。今の僕は少し自意識過剰になってしまっているのだ。


「でも本当にどうしたの、いきなり」


「いやまあ、驚くかなって、検証的な?」


「まあそりゃあ、驚いたけど」


 事実として驚いたので、僕はそう返す他にない。しかし僕が聞きたいことはそう言うことではないのだけれど。


「あと、笹川に見せたいものがあって」


 答えはすぐに示された。


「見せたいものって?」


 赤城の言葉から言葉への反応が過剰になってしまっている僕が、恐る恐るその『見せたいもの』とやらに興味を示すと、青山は「まあ一旦座って」と僕のベッドに座りその横をポンと叩く。

 何か、僕の精神に悪いものでなければいいのだけど。


「座ったけれども」


 僕は青山から少し離れた隣に座り、呟く。


「じゃ、見せるね」


 そういうと青山は僕にぐいと近づいて、僕がその接近に戸惑っている間に彼女は僕の耳にイヤホンの片耳を嵌めて動画を再生し始めた。


『──♪』


 動画の中では、青山が歌っていた。歌だけではない、裏ではドラムが鳴っていて少し遅れてギターとベースが同時に入る。

 音は全部で四色。ドラムとベースとバッキングギターと、青山の歌。

 それは紛れもなく、バンドの練習動画だった。

 赤城の少しぎこちないながらも安定したドラムに、野崎さんのテクニカルなベースがリズムを奏で、そこに青山のバッキングギターが努力の証だとも言わんばかりに力強く重なり、グルーヴが鳴り響く。その響きに合わせて青山はのびのびと歌を歌う。ギターを弾いているのなんて忘れてしまったような表情で、ただ一瞬を楽しむような笑顔で青山は歌っていた。

 バッキングギターは少しだけずれてなっているようだったけれどエフェクターの歪みでそれも気にならない。確かな実力のリズム隊に支えられて、初心者ながらも気持ち良く歪むギターの音色、透き通った一人の少女の歌声が重なり、それはバンドとなる。

 見ていて気持ちのいい演奏だと、素直にそう思った。全員が映るように引きで撮った映像だけど、各々の表情が綺麗に写っていて見栄えもいい。

 非の打ち所をわざわざ探せば何か埃は出てきそうでもあったけれど、そもそもそんな気なんて起こるわけもない、ただ音を楽しませてくれるような動画だった。


「……ね、どうだった」


 動画を見終わってからしばらく沈黙が流れ、青山が僕にそう尋ねてきた。

 少し恥ずかしいのか顔を体育座りの足に埋める様な格好で、それでもその耳が赤いことは見てとれた。


「すごく良かった」


 素直に、感想を伝える。正直僕は感動していた。ここまで青山のバンドがクオリティの高い演奏をするとは思わなかったのだ。

 想像以上のクオリティのものを見せられて僕は胸の奥から何か熱いものが震えているのがわかったけれど、それを多少強引に押さえつけて言葉を続ける。


「全員クオリティが高かったし、何よりリズム隊が安定してて、青山のバッキングもそれに浮かないぐらいに上達してる」


「そう、そうなの! 赤城と薺が本当に上手くて、私安心して弾けた!」


 興奮気味に青山は説明してくれる。その文脈に赤城の名前が出てくるのは当然で、そしてそれに今の僕が少しだけ胸が痛むのも仕方のないことだろう。

 それは気持ちの悪いことだと、誰かに後ろ指刺されなくたって僕はわかっている。それでもそれは僕の意思とはまた違う部分で、鈍く僕の心臓に触れてしまうものだ。

 この気持ちを青山に打ち明けて全ての不安を解消してしまいという気持ちもある。

 それでもこんなにキラキラとした青山の表情を見て仕舞えば、そんな気持ちはとっくに薄れてしまって、それよりも今のその表情を下手に歪めたくはないという気持ちの方が色濃くなってくる。


「それにね、私が少しずれちゃっても二人が丁寧に合わせてくれてさ、最ッ高に気持ちよかったよね」


 熱っぽく語る青山の言葉を聞きながら、僕は一つ決意を固める。


「そうそう、三人の響きもばっちり噛み合ってたし、」


 青山のこの希望と期待に満ち足りた表情を、僕が崩す訳にはいかないのだ。


「あと何より、青山の歌がとんでもなく良い。透き通ってて、綺麗で、でも力強くて」


 嘘はついていない、口に出した何もかもは全て、本当のことだ。


「……でしょ?」


 青山が少し恥ずかしそうに先ほどの顔を埋める体制に戻って嬉しそうに呟く。


 そう、僕にはこれだけで良いのだ。ただ青山を応援したい。彼女にはただそうしてあげたいのだと心が叫んでいる。

 青山に無用な心配はかけまい、僕は彼女をただひたすらに応援することに決めた。

 青山のバンドが、『Vega』が、上手くいきますように。そして青山の文化祭が、成功しますように、と。


 ──気持ちに嘘はついてないつもりだったけれど、少しだけ胸が痛んだ。

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