第20話 花火大会②

 迷子センターのテントにある椅子の一つに、僕は少女──かえでちゃんを背中から下ろして座らせる。

 僕の背中に揺られて初めの方は随分と楽しげに話を聞かせてくれていたが、疲れてしまったのか少女は後半は静かになってしまっていたため、「ついたよ」と小さく声をかけながら。


「……うん」


 どこか昏さを感じさせる声でかえでちゃんは僕に返事をする。


「疲れちゃったのかもね」


「うん。不安もあっただろうし」


 迷子センターの係の人に事情を軽く説明して戻ってきた青山が、僕にそう話しかけた。

 青山によれば、間も無くかえでちゃんに詳しい話を聞きに係の人がこの場まで来てくれるらしい。

 これで大丈夫だと、僕はすっかりこわばってしまった肩を軽く回しながら一息つく。

 それでもかえでちゃんはずっと不安げな表情を解くことはなく、それを見かねたのか青山が少女に優しく話しかける。


「大丈夫、もう少しでママとパパと会えるよ」


「……うん」


 相も変わらず表情には影が差している、それでも事実としてもうこの状況には一つ収まりがつくであろうと思っていた僕が、何か飲み物でも買おうかと思案し始めた時。


「……でも、」


「でも……?」


 かえでちゃんと青山の問答とほとんど同時に、僕は楓ちゃんの異変の理由に気づいた。

 この少女は、疲れているから後半から静かになり、そして不安そうな表情を浮かべているのだと考えていた。しかし、それは違ったのだ。


「サンダル……」


 少女は、片足しかサンダルを履いていなかった。そしてそれは最初からそうであったわけではない、僕らと出会ったときには確かにそれを両足に履いていた。つまり、ここまでの道中で落としてしまったのだろう。皮肉なことに、それが両親からの贈り物であることも、ここまでの道中で聞き及んでいた。

 かえでちゃんは僕の呟きに気づいたのか、顔をこちらに向けておどおどと語り出した。今にも泣き出してしまいそうな表情で。


「……ごめんなさい、途中で……落ちちゃった……」


 それでもかえでちゃんは、泣かなかった。泣いてたまるかと、少しばかり唇を噛んでいる姿が、少し痛々しい。

 少女は強い子であった。きっと大人になれば青山ほどでなくとも十人中七人は振り向く美人に育つことだろうし、今のような強さを持ったままに大人になればきっと僕よりも、もしかすると青山よりも立派になれるのかもしれない。

 そうだとしても、今この瞬間のかえでちゃんは唯の四歳の少女であり、誰も心配させまいというその強さを発揮することなく涙を流して頼ってくれてもよかった。寧ろそうであって欲しかったとまで思う。


「……ごめんね、気づかなかった。僕が、取ってくるから。ちょっと待っててね」


「……うん」


 その強くて誇り高いたった四歳の少女は、少しばかり間を置いてから僕の言葉に頷いた。その目は少しだけ潤んでいて、僕はそれでよかったと思う。

 たった四歳の少女らしく、僕を潤んだ目で見つめるかえでちゃんの頭を軽く撫でて、僕は青山に「探してくるね」と言葉をかけてから、花火が打ち上がる寸前、嵐の前の静けさのような静寂が広がる花火大会へと再び身を投げた。

 後ろからは何か声が聞こえたような気がしたけれど、静寂の中に吸い込まれて消えてしまい、うまく聞き取れなかった。


 *


 割と異性よく飛び出してきたものの、細かい探し方などについては全く考えていなかったので、少しばかり逸る足を緩めて考える。

 かえでちゃんのサンダルについては、問題なく見つければこれがそうだと断言できるぐらいには覚えているので、その点については問題がないのだが。


「どこに落ちてるか、なんだよなあ……」


 楓ちゃんによれば、くる途中で落としてしまったらしいから、僕たちが出会った公園の遊具がある部分から、花火大会の観覧席でもある芝生地帯ををぐるっと一周する道のどこかには落ちていると思うのだけど……どこで落としたのか、具体的なところを聞いておくべきだったと少し自分の勢いまかせな部分を反省しつつ、それでも虱潰しに探すしかないと、遊具までの道を戻ることにした。


 芝生を囲む道部分を歩いてくる人の波に逆らって、地面を見つめながらサンダルを探す。

 たこ焼きの屋台の前、射的の屋台の前、フルーツ飴屋台の前、飲んで酔い潰れた年配の男達の前、そして遊具の前。

 どれほど歩き回っていただろうか、自分の時間感覚がどれほど正確なのかわからないので今一つ測れないが、少なくとも十五分は探したと思う。

 はじめにかえでちゃんと出会ったこの遊具があるエリアから迷子センターのテントまで、ゆっくり歩いたとしても十分もかからない距離なので、それなりには念入りに探したつもりだったのだけど、少女のサンダルの影はどこにも見当たらなかった。

 喉が渇いた、何か飲み物が欲しいと諦めかけながら、それでもあの時に泣かなかったかえでちゃんの強さを思い出してもう一往復を探そうと自分を奮い立たせる。


 そうして迷子センターのテントに程近いたこ焼き屋台の目の前まで戻った時だった。

 僕の肩が、誰かの肩にぶつかる。


「わっ」


「あっ、すみません」


 自分で思っているより下を向いていたらしく、避けたつもりが前を歩く人に軽くぶつかってしまった。

 思わず謝りながら、僕は今しがた当たってしまったその人に視線をむけ────絶句した。


「あれ、笹川くん……?」


「……」


「え、違う? でも、この間買った服着てるし……」


「ああ、ごめん。あってる、笹川です」


 その人は、野崎さんであった。栗色の髪の毛をハーフアップ風にまとめたいつもの髪型で、以外にもラフな格好でこの場にいた。


「やっぱりそうだよね、こんな所で会うなんてびっくり。私は叔父さんの屋台を手伝っててここにきてるんだけど、笹川くんは?」


「僕は、家族と」


 淡白な回答。僕はどんどんと前のめりになってしまう感情を必死に抑えて、なんとか冷静に野崎さんの質問に答えた。

 そして、ついに僕の探し求めているものへと、話題を転換させる。


「あの、野崎さん。その、手の……」


 先ほど、絶句したという表現を用いたが、それはぶつかってしまった人が野崎さんだったからではない。僕が何に絶句したのかというと……。


「ああ、このサンダル? さっき落ちてて、今落とし物のところに届けようかなって……片足だけ落とすなんて、随分とうっかり……」


「そのサンダル、探してて。僕の親戚の子の履いてるやつで、無くして困ってて」


 思わず野崎さんの言葉が途切れる前に口走ってしまう。自分でも何故これだけ感情移入してしまうのかわからないが、どうにもこれが僕の性分らしい。


「え、ああそうだったの? じゃあ丁度良かったね、ちゃんと届けてあげてね」


 野崎さんは僕の適当な嘘を疑うそぶりもなく、すんなりと手に持っていた可愛らしいサンダルを僕へと手渡してくれた。


「うん、ありがとう。じゃあ」


 僕はそうとだけ残して、手を振ってくれる野崎さんを尻目に迷子センターのテントへと踵を返した。


 *


 それからはとんとん拍子に事が運んだ。僕がかえでちゃんのもう一足のサンダルを手に迷子センターへと戻ったところ、その少し前にかえでちゃんの両親が彼女を迎えにきていたらしく、青山と四人で話をしている最中だった。

 かえでちゃんは僕と僕の手にあるサンダルを目にすると、初めて僕らに涙を見せて、ありがとうありがとうとお礼を述べてくれた。

 僕と青山はそれから、かえでちゃんとそのご両親に一言だけ挨拶をしてテントから出ていった。強い少女は、悲しみではなく嬉しさで涙を流した。それが少しだけ嬉しかった。



「さて、今は何時でしょう」


 テントを出て間も無く、青山が僕にそう問うた。


「────。」


 どん、と夜空に花が咲いた。夏が旬の、満開の花だった。

 僕の言葉はその音によってかき消され、青山には届かなかったけれど、それでもなんとなく気づいていた。

 青山は、怒っている。

 時間を確認すれば、現在時刻は午後七時三十二分、実に花火開演から三十二分遅刻していた。こんなに時間が経っていたのかと、もう花火が上がっていたのかと驚く。

 夜空は先刻よりもその暗さに磨きがかかっていたし、その夜空には今までに満開を迎えたのであろう花々の残滓が、白く漂っていた。


「……本当にごめん」


「……まあいいよ。とはいえないかな、流石に」


 青山は悔しさと優しさと虚しさと、おそらくはその他色々な感情が混じり合った、少し泣き出しそうな表情で僕に言葉を返す。


「……うん」


 僕のしたことがいくら賞賛に値されると言っても、それは世間的にであって、僕と青山の間の話ではない。

 初めてのデート、それも花火大会という夏の一大イベントで、僕という自分勝手なやつが自らのエゴで青山を振り回してしまった。今となっては花火の開始時刻はとっくの昔。青山が怒るのも無理からぬ話だ。


「……いいよ、って簡単には言えないけど。それでも笹川は正しいことをしたんだと思うし、私もそれを無理に止めたりはしなかった」


「うん」


「誰が悪いとか、悪くないとか、可哀想だとかそうじゃないとか、多分そういう単純な話でもないから」


「うん」


 青山は淡々と言葉を続ける。もう怒りの空気は取り払われている。


「だから、これは私に貸し一つ、ってことで手打ちにしよう」


 青山は悪戯っぽく笑った。後ろで夜空に枝垂れの桜が咲き、彼女を美しく照らす。


「……本当にごめん」


「笹川は悪いことをしたわけじゃないんだから、謝らないの。これは私が理不尽に怒ってるだけなんだから」


 そんなわけがない。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 自分勝手な自分が嫌いになる。やはり青山にはこんな僕なんて。


「ねえ、笹川」


 呼ばれて、振り返る。

 程近くに、青山の整った顔があった。綺麗な二重瞼が開いて、僕を写す瞳がそこにある。

 瞬間、青山の顔が僕に近づく。下駄でバランスを崩したのかと思って彼女の体を受け取る用意をする。


 頬に、柔らかい感触があった。

 それから、「これで、貸し借りなしね」という青山の甘い囁き。


 次の一瞬では、青山はもう僕の近くにはおらず、バランスを崩して僕の腕の中にいるわけでもなく、数歩先で僕を手招きしていた。


「ほら笹川、早く行こっ! あと一時間もしないで終わっちゃうんだから」


 僕はこの数瞬に起きたいくつかの出来事について、どれ一つとして現実味を帯びていないなんて思いながら、彼女に導かれるままに観覧席である芝生へと足を踏み入れる。


 そこからは、夢のような一時間だった。

 いつか僕も、彼女のように素直に愛を伝えられればいいな、と思った。

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