第19話 花火大会①

 八月十一日 その日はいつもよりも少し遅めに目が覚めた。

 特に夜更かしをしたわけでもないけれど、いくらか眠たくて二度寝をしてしまったからだろう。しかしそれでも今日という日の予定に遅れるほどではない。

 そう、今日は僕が待ちに待った花火大会の当日。僕と青山が、実質的には初めてデートをする日なのだ。


 一年近くも付き合いがあって、やっと初めてなのかと思う方もいるかもしれないが、僕の奥手さを舐めてもらっては困るし、青山だって僕を無理に外へ連れ出そうとはしなかった。

 他人に関係がバレるのを恐れる、僕への愛山なりの配慮だったのかもしれない。そう思うと、気にしていたのかもしれない青山に対してあの日の僕の誘いは少々無神経だったのではとも思えてはくるが、青山も楽しみにしていると言ってくれたし、今日ばかりはそんなことに耽る気にもなれない。

 そうだ。柄にもなく僕は今日、浮かれていた。初めての彼女との初めてのデートだ。そりゃあそうだろう。


 僕はそんなことを考えながら、先日の買い物で赤城や野崎さん、そして青山に選んでもらった服から一着を選び、部屋着からそれへと装いを変える。

 髪はつい昨日切ってもらったばっかりでさっぱりしていたし、歯も磨いた。財布には一万近く入っているし、電車で隣町に行くための定期だって持っている。

 そこまで完璧に用意して時計を見てみたが、いまだに時間は午後三時まであと十分と言ったところ。僕らが最寄りの駅で集合を予定しているのが午後三時半なので、今から家を出ると三十分近くも待ってしまう。

 普段の僕であれば、そこで三十分ほど時間を潰してで抱えるところだったのだが、こうの僕はこれまた人味違い、三十分の待ち時間なんて厭うまでもなく、家を発っていた。


 駅の周りは思いの外浴衣の人が多かった。この駅からは四十分程かかる隣町でやるからと少しばかり甘くみていたのかもしれない。さすがは花火大会といったところか。

 僕は駅に着いて自分のスマホで時間を確認する。午後三時ちょうどだった。

 しかし多くの人が行き交うこの駅前に、青山の姿はない。集合の三十分も前なのだから当然なのだけれど。

 それでも、できるだけ早く来てくれるとありがたい、と思いながら道ゆく人々を眺めていると、十分ほどして方を叩かれた。


「早いね、笹川。もしかして楽しみだった?」


「──っ」


 青山の声だった。僕はすぐに振り返った。僕よりは遅かったけれど、集合の時間よりかは早い時間なのは僕の時間感覚が狂っていなければ確かなので、青山も何気に楽しみにしていたのだと、僕としては珍しくからかってもみようかと思っていた。

 でも────、


「どうしたの? 笹川」


 青山が僕の目の前で手をひらひらと振る。僕はそれにも返事ができずに立ち尽くす。

 ──青山が、あまりに美しく、新鮮だったから。

 青山は、浴衣だった。木の実が描かれた、はなだ色の綺麗な浴衣だった。

 こんなものは僕の想定にはなくて、どうにもできずに固まってしまう。


「大丈夫? 気分悪い?」


 青山が本当に心配そうな顔をして覗き込んでくるので、僕はようやく我に返って言葉を返す。


「あ、いや、大丈夫……だと思う」


「ふうん、ならいいけど」


 青山は「じゃ、行こっか」といって足を駅へと向ける。

 珍しく黒髪を編み込みにアレンジして纏めており、そのうなじもまた僕の視線を惹きつけたが、また青山に心配されては申し訳ないので、僕は何とか正気を保ちつつ青山の後を追った。

 僕と青山の花火大会が、今始まった。


 *


 電車の中の記憶は、あまりない。少なくとも、その間の四十分間で僕はどうにか青山の浴衣姿を直視できるようになっていた。

 それだけでも随分な努力だと、誰かに褒めてもらいたい。なぜなら、間違いなく今日の僕の彼女は、世界で一番可愛いからだ。

 不意に、そんな彼女の隣を歩く資格が僕にあるのかと不安にもなるが……、


「笹川、やっぱりその服似合ってる。髪もいい感じだし、今日かっこいいよ」


 会場である大きな公園の最寄りの駅から祭りの会場へと歩く道中、青山のそんな一言で不安はこれ以上ない程の喜びへと変異した。気張ってきた甲斐があったと、報われた気分になる。


「あ、青山も……」


 見た目のことを褒められ、思わず僕も青山のことをどうにか形容しようと口を開くが。


「……」


「……青山も? なになに」


 言葉が出てこなかった。浮かれているとはいえ、僕は僕だったのだ。僕という人間はそう簡単に人のことを褒められない。

 それが女子であり、見た目のことであれば尚更だ。間違いはあってはいけないと、間違いを恐れて自然と口には鍵がかかってしまう。間違いなく、僕は意気地なしであった。


「言わないんかい」


 青山には呆れられたように笑われて、それから手を握られた。そのありがたい対応に心の内で涙を流しながら、僕はその手を握り返す。


「まあ、いっか。ほらみて笹川、たこ焼き食べよーよ!」


 調子は変わらず、青山は僕を屋台の方へと引っ張っていってくれる。

 今は午後四時ちょうど、日が沈んでから花火が上がり始めるまでにはまだあった。

 僕はいつぶりになるのかもわからない程の祭りの雰囲気に、珍しくも期待感が湧いている。

 青山となら、楽しめるのかもしれない。そう思うと不思議と何でもやれる気がする。

 さあ、青山曰く最初はたこ焼きらしい、僕もそれに従って祭りの人混みへと身を投げた。


 それからは、いろんなことをした。いつぶりなのだろう、おそらく小学生ぐらいの時分に母さんに連れてきて貰った以来だろうか。母さんには申し訳ないが、間違いなく、人生で一番楽しい祭りだと感じた。

 たこ焼き、焼きそば、かき氷、りんご飴、射的、金魚救いにヨーヨーすくい。そして浴衣姿の青山。全てが煌めく思い出となっていった。


「あの子、迷子じゃない?」


 ようやく日も暮れてきて、そろそろ花火のために会場でも花火のための場所取りをする人が目立ってきた時間。おそらく一発目の打ち上げまでは二十分といったところだっただろうか。

 青山が、そう呟いた。


「……行こう、青山」


 青山の視線の先には、遊具の近くで一人で不安げな三歳ほどの少女。僕は思わず青山に声をかける。

 正直、僕らもそろそろ関取をしないと怪しいのだけれど、あんな姿を見ては仕方がない。


「……うん、そうだね」


 少し返事には間があったものの、青山も僕の言葉に頷きその少女のものとへと僕らは歩いていった。


「もしもし、いきなりごめんね? パパとママはいるかな?」


 少女は、泣いてはいたが喚いてはいなかった。パパやママと呼びながら泣いた方が、ずっと周りは助けてくれるはずなのだけど、そうやって泣くよりも現実をいまだに受け止めきれていないのか。


「……いないの」


「どのくらい前から、いないの?」


 青山が、僕と同じように蹲み込み少女へと聞いた。


「……さっきまで、いたのに」


 自分よりも大人の人に話しかけられて安心したのか、少女は少しだけえずきながら答えてくれた。


「パパもママも、さっきまでいたのに」


 少女の円な瞳から、涙が溢れる。

 青山が、少女の頭を撫でながら力強くいう。僕に目配せをして。


「大丈夫! お姉ちゃんたちが、あなたとママたちを会わせてあげる」


「……ほんと?」


 少女は、少しだけ疑わしそうに呟く。いくら自分たちより大きいとはいえ、自分の親よりは頼りにならないと、そうとでも言いたげだった。

 実際問題、僕らに頼り甲斐があるかどうかは置いておいて、それでも少女がこのまま一人でここにいるよりはずっと安全だし、確実な方法を僕らは知っている。

 強く頷き合ってから、青山がまた、代表してセリフを言った。


「本当よ! だからほら、お姉ちゃんたちに着いてきてね」


 青山は自分の頭についていた狐のお面を、小さな少女の頭に被せてやってから、優しく笑いかける。

 こういう時、やはり美人は有利なのだろうと思う。少女はそれだけで少し安心したように、少しだけ笑った。


「うん、じゃあお兄ちゃんがおんぶするから、一緒に行こう」


 青山を信じてくれたついでに僕のことも信用してくれたのか、彼女はすんなりと僕の背中に乗ってくれた。

 それから、名前と歳も聞いた。かえでちゃんという名前で、年は最近四つになったばかりで、この間誕生日プレゼントにサンダルを買ってもらったらしい。今履いているのがそうだと、嬉しそうに教えてくれた。

 僕と青山と僕の背中に乗るかえでちゃんは、この花火大会の運営である本部のテントの程近く、迷子センターのテントへと向かっていた。

 会場が神社などではなくてよかったと思う。僕のような貧弱は、かえでちゃんのような軽い子でも、階段を登るのには少し力が足りない。

 そんなことを思っていると、目的のテントへと辿り着く。


 現在時刻は午後六時五十五分。開演までは、残り五分だった。

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