第16話 小さな勇気
ふと窓の外に目をやると、日が傾き出していた。時計を見れば、もう時刻は午後六時半を回っている。
「あ、もうこんな時間か」
青山も同じことに気づいたらしく、彼女はギターを引いていた手を止めて、アンプの電源を切る。丁寧にも全てのつまみをゼロに合わせてから。
「いやあ、ギター練習してると、一瞬だね」
ボディからシールドを抜き、それをまとめながら彼女は呟く。今日は青山は塾の夏期講習からそのまま来ていて、涼しそうな、それでいて可愛らしい格好をしていた。
六時半を回っているということは、詰まるところ青山が僕の部屋に訪れてからもう二時間半が経過したということであり、その間ずっとギターの練習に費やしていたということになる。
最近、青山のギターの腕は目に見えて成長していて、それはやはり彼女の努力による成果なのだと思う。青山曰く、一日四時間は練習に費やしているらしく、その時間に見合った成果が獲得できているということだろう。
「そうだね。でも青山どんどん上手くなってて、凄いよ」
「まあそれなりに練習はしてるからね。でもどうしても薺の作ってくれた曲だけはなぁ……」
僕は素直な気持ちで誉めたのだけれど、彼女は少し表情を暗くして呟く。
確かに、いくら青山の成長が著しいからといって、件の野崎さんの作ったオリジナル曲を一朝一夕でコピーできるほどではない。ただそこまで気に病むことでもないとは思っているのだが……。
「どうやったら、笹川みたいに弾けるようになれるんだろ」
「まあそういうことを考えるよりは、とりあえず」
青山が僕のことを褒めてくれるのは嬉しいが、残念ながら青山と僕では技術を培ってきた時間が違う。
致し方ない差というのがそこにはあるが、楽器は正直だ。決して努力を裏切ることはない。
そういう意味を込めて彼女に言葉をかけようとする。
「練習あるのみ、でしょ? わかってる。心が折れたわけじゃなし、私は頑張れる子だよ」
どうやら最近、口癖のように青山にかけていた言葉を彼女は覚えていたらしい。僕の言葉は青山に奪われてしまった。
でも、それを口にする青山はもう暗い表情はしておらず、僕はそれに安心する。
「知ってるよ、青山は頑張れる人間だ」
青山が器用で何でもできてしまう人間、と以前の僕は思っていたがそれが違うことも僕はもう知っている。
青山にだって得意不得意はある。でも青山はそれをしっかりと努力して解決している。
青山は強い、と僕は思う。彼女のような強さがあればきっと、このぐらいの壁はなんてことはなく乗り越えてしまうんだろう。
「じゃあ、そろそろ帰ろうかな」
「あっ……」
青山が自分のギターをギターバッグに仕舞い終わった所でそんなことを言ったので、僕は思わず声をかけてしまう。まだ何をいうかも決めていなかったのだけど。
「ん〜、どうしたの?」
僕は何も言えない。青山はギターバッグを背負いながら首を傾げる。
今日、僕にはどうしても青山に伝えなければいけないことがあるのだ。しかし、それをまだ言い出せていない。
今、言ってしまおうか。僕は何とか絞り出そうとする。
「……お、送るよ」
情けない限りである。
「いや、まだ明るいし大丈夫……、」
青山は呟きかけて、窓の外に向けていた視線を僕に戻す。
陽の光は橙に染まりかけていて、青山の凹凸のはっきりした綺麗な顔が一層強調される。僕らは、見つめあっていた。
「……ううん。送ってくれると、嬉しいな」
僕らが見つめあっていたのは、一瞬だった。
すぐに青山は優しく笑って僕の手を引いて歩き出す。温もりを、感じた。
*
青山は僕の手を引き、母さんに一つ挨拶をして僕の家を出て歩き出した。母さんは「夕飯食べていけばいいのに」と残念そうだったが、青山は「甘えすぎちゃうのは申し訳ないですよ」と丁重に断っていた。
それからしばらく無言で歩いただろうか。青山は優しい声で切り出した。
「で、どうしたの?」
その声で僕は顔を上げる。
そこで初めて僕は、青山を送るときにいつもその切れ目となっている公園の近くなのだと気づいた。
青山は歩みを緩めて、そして静かに止まって振り返った。青山が通っている塾は、駅近くにありそこからそのまま来たらしく、つまり今の青山は自転車を押していて、僕は歩いていた。
いつかの逆だな、と僕は思う。
とにかく、ギターバッグを背負い自転車を押していて、さらにはそのカゴの中には教材の入ったトートバッグが入っている青山を、この場所に縛りつけるのは申し訳ないことだ。
「……」
「……大丈夫」
勇気が出ないで不甲斐なくまた地面を見つめる僕に、それでも青山は優しく声をかけてくれる。
情けない、本当に情けない。「大丈夫」という言葉は何に対しての大丈夫なのだろうか。
そんな現実逃避をしてしまいたくなるほどに僕は弱かった。青山のような強さはない。
「……そう言えばさ、」
青山が語り出す。
僕に痺れを切らしてではなく、優しく独り言のように。
「笹川が私に告白してくれたのも、ここだったよね」
七月の暮れの今日、そこからそう遠くは離れていない日を懐かしむように青山はふっと微笑む。
「あの時は流石に困ったなあ、笹川三十分以上黙っちゃってて。私はその間、私の気持ちが受け入れられるのか、拒絶されるのか不安なまま待たされて、」
情けない話だ。
「結局それだけ待たされたのに、伝えられたのは『好きです、付き合ってください』っていう言葉で、」
口調は僕を少し責めているようだけど、声にはそんな棘は一切なく、僕を優しく包んでくれる。
「先に告白したのは私だし、その返事を聞こうと思ってたのに、まさか笹川の方から告白されるなんて、そんなこと想像もしてなくて、でもすごく嬉しくて」
青山はゆっくりとした口調のまま続ける。
「すぐに頷いちゃってね。……あんなに待たされたのに、でも私はそれもいい思い出だって、そう思っちゃってる」
「だから大丈夫。笹川が今どれだけ私を待たせたって、どうせ私の幸せな脳みそは『これもいい思い出だった』って勝手に思ってくれるから、大丈夫」
思わず、青山に目線を向ける。
青山の頬は夕陽では誤魔化しきれないほどに赤くて、僕の顔もどうしようもなく熱かった。
自転車を傍らに止める青山と、情けなさ以外にその手に握るものはない僕。私服の青山と、制服の僕。美しい青山と、これと言って特徴のない僕。
それから。強い青山と、弱い僕。
「……」
「……」
僕らは夕陽に照らされ見つめあって、黙っていた。僕はまだ口を
日の暮れの魔法で青山は一層美しくて、それがまた情けなくなってしまう。
青山には甘えてばかりだ。僕も、小さな勇気を出そうと思った。
斜陽は僕らを照らしている。公園で遊ぶ親子は今日の夕飯の話をしている。公園の時計は六時四十七分を指している。近くの家はピアノの音色を奏でている。そして僕は、小さな勇気を振り絞ろうとしている。
その全てが、どうしようもないほどに尊くて、どうしようもないほどに過ぎゆく日常。当人たちにとってはかけがえのない瞬間だとしても、いずれは思い出色を増して遠くなる風景。
それを悲しいと思う瞬間もあれば、露程も気に留めない瞬間もある。
今僕は、それを有り難いと思った。
僕が今どれほどの感情を抱えていたところでそれがいつか記憶となってしまうのは逃れられない未来であり、沢山ある日々の一つとしてしか思い出されることはない。
そのことが何だか、僕の気を楽にしてくれる。
今なら言える気がした。
「……青山、今度一緒に花火大会に行こう」
「……」
青山は一瞬きょとんとした顔をした。拍子抜けしてしまうほどにちっぽけな告白だったからだろうか、それとも僕が意外にもすぐに口を開いただろうか。
青山は笑いながら僕に返す。
「ふふっ、それだけ?」
「うん、それだけ」
たったこれだけに、僕は手間取っていたのだ。バカにしてくれても構わない、笑ってくれても構わない。だから、いつかまた笑い話にしてほしい。
「そんなの、断るわけない」
僕はその時の青山の表情をきっと、一生涯忘れないだろうと思った。
それは一瞬きの出来事で、今この瞬間には過去のことで。きっと沢山ある日々の一つとなってしまう。
でもきっと青山との記憶は、ときめきを孕んでいるから。
どんなに遠い過去になってしまっても、鮮明に思い出せるのだ。
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