第10話 割れたギター

 時刻はもう八時半を回っただろうか、辺りはすっかり暗くなっていて、いくら六月とはいえ太陽もときの流れには逆らえないらしい。

 青山は「ここで大丈夫」と言って、本当はもう少し一緒にいたかったけれど僕は頷いた。


「じゃあ、明日から笹川んちにギター、持ってくね。練習、がんばります」


 少し照れくさそうにしながら、僕に敬礼の姿勢をする。


「はいはい、頑張ってください。僕も少し思い出しとくね、ギター」


 くすっと笑ってから、僕も青山に倣って敬礼をしてそう返す。

 青山はそんな僕に満足してくれたようで、ニコリと笑ってから手を振って、僕から離れていった。

 狂い咲きがあるなら狂い鳴きもある、まだ時期は六月だというのに、暖かいというだけで季節を早とちりした蝉だけが、夜の静寂に反旗を翻していた。

 今日は何だか、夜風が身に沁みる。


 *


 少しゆっくり歩いて帰ったからだろうか、家を出たのは確か八時二十分ほどだったのに、帰ってきたらもう九時近かった。


「ただいま」


 母さんがテレビを見ているのかもしれない。陽気そうな芸人が「エアギターソロ!」と言って笑いをとっているのが聞こえた。

 一度洗面所に向かって手を洗い、そして再びリビングを通ってキッチンへ向かう。

 今度は先ほどの芸人が「エアドラム!」と称してやたらと上手いボイパを披露していた。

 コップ一杯の水を注ぎ、それを飲み干す。それでもなんだか嫌に気持ち悪くて、もう一杯水を飲む。

 まだ気持ち悪さはあったが、流石に三杯目は身体が必要ないと告げていて、僕はそれに逆らわずにコップを洗って乾燥棚に伏せた。

 コップの底が、先ほどの芸人が今度はエアベースで滑っているところを映していた。何ともかわいそういなことだ。

 リビングを抜け、自分の部屋へと戻る途中に母さんに呼び止められた。


「燈、本当に大丈夫なの?」


 優しい声、それだけで母さんの気持ちは痛いほど伝わってきてしまう。

 それに甘えてしまいたくなる気持ちをグッと堪えて、僕は言う。いつまでも逃げられるわけではなかったのだ。


「ギター、教えるだけだから」


 質問に対する正しい答えになっていないのは分かっていた。でも僕には今の母さんにはっきりとした答えを告げることはできない。

 これから先のことなんて、何もわからないのだ。


 *


 部屋に戻って、なんだか電気はつけたくなくてカーテンを開ける。今日は天気がとても良くて関東圏でそこまで田舎でもない僕の街でも、今日は月と星が明るかった。

 窓から斜めに差し込む月明かり、星明かりが僕の部屋を照らす。その一番端が、部屋の隅に横たわっているギターバッグを指さしているようだった。


「……」


 僕は何も言わずに、それに近づく。

 苦い、苦しい、背に張り付く、呼吸の仕方を忘れる、ふとした時に思い出して逃げたくなる、そんなような感覚が思い出される。

 嫌な記憶だ、紛れもなく。

 静かにそのギターバッグを開ける。


 中には、一本の割れたギター。


 ライブでパフォーマンスでギターを折る人はいるけれど、割る人はいない。

 僕のギターは、ボディの左下から中心にかけて不格好の割れ方をしている。パフォーマンスだとしたら地味すぎる、何の変哲もないギターにとっては目立ちすぎる。

 そしてそれは、僕の嫌な記憶をくすぐるのにも十分だった。ギターバッグを閉じる。


 僕は果たして、青山にギターを教えることができるのだろうか。何もわからない。未来のことなんて、誰にもわからない。

 幸い僕はギターをもう一本持っていて、そちらは長い間物置で埃を被ってはいるが、まあ大丈夫だろう。

 ただ、大丈夫なのだろうか。

 先ほど母さんに問われたような疑問が、僕の中でも駆け巡る。

 そのとき、僕のポケットでスマホが鳴った。


『マイギターwith私!!』


 そんな文。そして一枚の写真。

 青山が水色のテレキャスと自撮りをしていた。


『いいね、テレキャス』


 僕はそう返す。素直な感想だった。この一年触っていなかったせいか、テレキャスという響きが随分と懐かしい。


『でしょ!! 明日からこの子こと一緒に笹川に教わるの、なんか嬉しくて』


『楽しみにしてます、笹川先生!!』


 ぽん、ぽんと二つ続けて送られてくる。

 自然と「期待しすぎだって」と笑えてきて、スマホに文字を打ち込む。


『久しぶりだから、あんまりかもよ』


『あんまりでも、一緒に成長できるということで!』


 返信はすぐに来た。


『そうかもね』


 僕はそう送ってスマホを閉じる。

 一つ息を吐いてから足に力を入れて立ち上がる。立ち上がるのに、もう重さは感じなかった。

 部屋の電気をつける。ありがとう、青山。

 これからのことなんてわからない、僕が大丈夫なのか、そうでないのかも。ただまあ、ずっとこの場に留まり続けるよりはマシだろう。

 窓の外を見ると、星と月が輝いていた。暗闇の時ほど明るくは見えなかったけれど、それでも確かに。明るいところからでも、光は見えた。


 これからのことはわからない。それでも、ちょっとでもいい未来が待っていればいいなと、そう思った。




(これにて序編終了です。ここまで読んでくださりありがとうございます。次回から文化祭準備・夏休み編が開幕しますので、もうしばらく彼らのお話にお付き合いください。)

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