第7話 僕にできること
職員室で青山が居残りで考察文を書かされている。その情報を聞いて僕はなんとも呆れ返ってしまった。
そしてため息をつくのが早いか、僕が赤城に別れを告げて教室を出るのが早いか、それほどの判断の速さで、僕は今職員室へ向かっている。
いくら僕の隣にくる口実とはいえ、引き受けてしまった仕事を放ったらかしにしておいたとは、関係ないはずなのに僕までもがなぜか少し責任を感じてしまっているから。
青山に対して責任感がないだとかどうだとか言って非難するつもりは毛頭ない、むしろ文を出していない今の状況こそが青山らしいとさえ感じる。
ただ、そう、なんというか。
そうだ、今日は確か青山がまたうちにくると昨日LINEで言っていた。僕はその時間を無駄にしたくないのだ。
今から家に帰って考察文を書く青山を待つというその時間が、無駄だから、僕は今こうして職員室へと足を向けている。
そう、だからこれは決して困っている彼女を助けたいだなんて、格好つけた発想ではない。恥ずかしいから、そういうことにしておいてほしい。
*
三階の教室から一階の職員室まで、たどり着くのにはそう時間は掛からなかった。くだらないことを考えていたから、余計にそう感じたのかもしれない。
職員室に入る時に、同じクラスの女子とすれ違った。名前はよく覚えていないけれど、栗色の髪が特徴的な女子。確か青山とも仲が良かったはずだ、もしかしたら彼女も様子を見にきていたのかもしれない。
職員室に入って青山を探してみれば、思っていた通りのところに座って眉根を寄せながら原稿用紙と向き合っていた。
この学校の職員室には生徒が自由に使って良いフリースペースがあり、そこには机や椅子、学校管轄のパソコンなどが設置されていて、誰でも使いたい時に好きな様に使える場所となっている。
このスペースを実際に使っている生徒も一定数はいて、もしかしたら今日も放課後に残っている物好きがいるかと思って青山が座っている席以外も眺めてみたが、幸いなことに今日は青山だけのようで、僕は少し安心して青山に歩み寄る。
「……ん」
足音か影か、とにかく僕の気配に気づいた青山と、目が合う。形の良い眉が、眉間に綺麗な八の字を描いていた。
「わっ、笹川!?」
彼女は僕がこの場所に訪れたのが随分と意外だったようで、少し大きな声で驚いている。
びっくりしたーいきなり来るから絶対変な顔見られた、なんて早口で呟きながら自分の眉根を揉んでいる。それ、なんの効果があるのだろう。
「笹川ですけど」
僕は呆れを全面に出すようにして、適当な返事を返す。残念ながら、僕が今話に来たのは君ではないのだ。
「花村先生」
僕は日陰者ではあるが、別に職員室で担任の先生を呼ぶのに物怖じするほど気は弱くはない。何度か同じ言葉を繰り返し呼ぶとと、ゆっくりと船を漕ぎ始めていた担任の教師にも届いたらしく、僕の方へと歩いてくる。どうやらまだ完全に下船はできていなさそうだ。
「どうした笹川」
驚いた、僕の名前を覚えていることに少し。
「今日の朝提出した、オペラの考察文を少し訂正したくて。貸してもらえませんか?」
要件はすぐに伝わったらしく、担任もとい花村先生は「俺は結構良い出来だと思ったけどなあ」なんてぶつぶつ言いながら自分の机へと戻っていく。
そして一分ほど経過してみれば、今日の朝提出した原稿用紙は僕の手にあった。
「ありがとうございます」
僕は花村先生にお礼を伝えてから、フリースペースへと踵を返す。
さて、いっちょ助けてやりますか。
フリースペースには三つほど丸型の机がある。今日はその全てが空いているので、どれを使おうかと迷っていたところ、
「笹川」
青山が彼女の向かいの席を叩いていた。二人で向かいあって勉強をしている姿なんて他人に見られたらあらぬ誤解を生むかもしれないと逡巡したが、まあなんとでも言い訳はできるだろうと自分を納得させて、彼女の向かいに座った。
「笹川も、終わってないの? それ」
青山がちょっとだけ嬉しそうに僕を見つめてくる。
同族を見つけたような顔をしないでほしい、僕と君には月とスッポンぐらいの差がある。
「とっくのとうに終わってるけど、何か?」
できるだけ嫌味ったらしく言った。別にこれぐらいなら許されるだろう。
「ん? どゆこと?」
彼女は何やらまだ合点が行っていないようで、頭の横にはてなマークが似合いそうな可愛らしい表情を浮かべている。
僕は察しが悪い彼女に言ってやる。恥ずかしいからあまり直接的には言いたくなかったのだけれど。
「誰かさんが、ここで居残りさせられているって噂が流れてて」
それを聞いて彼女は、ニンマリと嬉しそうな表情を作って、それからまた先程のはてな顔に戻って僕に尋ねた。
「え、笹川にそんな噂を流すような人いたっけ?」
暗に君に友達がいたっけと問われている。いやいないが。
「帰り際に、赤城と少し話して」
「あーそっか、オペラの時ちょっと話してたもんね」
案外彼女は驚かなかった。その点が僕には意外で、「笹川にそんなコミュ力が」なんて言われるだろうと思っていた僕は少し拍子抜けしてしまったが、それも長続きしない。
青山はあまり驚かなかった代わりに、すぐにまたニンマリと頬を緩めて僕を虐めにかかる。
「じゃあもしかしてー、笹川は私を助けに来てくれたってことかなー」
先程もらった原稿用紙ともう一枚今カバンから出した原稿用紙を並べ終えて、ペンを持った僕の手を青山の指が触れる。すーっと、指先から手の甲へとくすぐったい感覚が伝わる。
「……」
「私のために助けに来てくれるとか笹川、私のことめっちゃ好きじゃーん」
青山は満面の笑みで僕を見つめてきている。僕を煽ろうとしている意思もあるが、なんだか本当に嬉しそうにも見えてきてしまって、少しだけ懐柔されそうになる。
だがしかし、僕は甘やかさない。
「……帰る」
「すみませんでした」
青山は潔く頭を下げた、拍子に、彼女のおでこが机に激突してゴンと鈍い音を立てる。
僕はそれに耐えきれず静かに吹き出してしまって、それを聞いた青山も肩を震わせ始めて、僕たちはおかしくて笑ってしまった。
「僕はこの考察文がなんか気に入らなくて、今からもう一個書くんだ。でも多分、僕はそれをもっと気に入らなくてここに置いて行っちゃう予定だから」
僕はしばらく笑った後に、ちょっと芝居がかった口ぶりでこんなことを言った。清々しいほどに素直でないが、どうか許してほしい。自分の感情をそのまま伝えるというのは、とても難しいから。
「なるほど、じゃあ私はその感想文をきっと気に入るね」
青山は僕の言葉の意図を理解してくれたようで、にししと笑う。その笑顔は、オペラの時に見せた笑顔とよく似ていて、照れているような悪巧みをしているような、それでいて幼子のような、そんな笑顔だった。
思わず見惚れてしまって、誤魔化すように僕は台詞を続ける。
「気にいる保証なんて、別にないでしょ」
これがいけなかったのかもしれない。この発言がなければ、僕はあんなにも頑張らなかった。これを言わなければ最低限のクオリティのものでいいと思っていただろう。
でも、僕は言ってしまったから。
どうにかして青山に、この魅力的すぎる女の子に、今自分ができる限りのことをしてやりたいと思わされたのだ。
僕がこのことを言ってしまったから、青山はこう返した。
「……? だって、笹川が書いてくれるんだよ? 気に入らないわけないじゃん」
*
僕はこの彼女の言葉のせいで文章の質に拘らざるを得なくなってしまい、結局僕らが文章を書いて提出したのは、それから一時間後だった。
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