第5話 芸術鑑賞どころじゃない

 芸術鑑賞のオペラは都内のとある劇場で見ることになっていて、そこには開幕までに現地に来ていれば良いというなんとも杜撰な体制だった。まあでも実際それで何年もやってきている訳だから、一番効率のいいやり方なのだろうけれど。

 僕としてもその方法はありがたく、劇場前で整列して集合なんてことになると、どうしても待ち時間が暇になってしまう。

 なのでこの方法は学校側が長い年月をかけて芸術を鑑賞してきた賜物だと感心していたのだが……。


 ……集合時間が開幕まで且つ現地集合となると、なんとも時間にルーズになってしまうのが僕という人間な訳で。

 結局のところ、僕の様な人間のためにはならない体制なのだな、なんて思いながら僕は劇場最寄りの駅から劇場への道を走っていた。

 何も電車が止まっていたわけでもない、まだいける、まだいけると自宅で電車を逃し続けたのがいけなかった。結局母さんによる一喝で僕は出てきたわけなのだけど、それさえなかったらと思うとゾッとしない。


 そんなことを考えていたら劇場に着いた。

 スマホで時間を確認すると、12時20分。開幕が12時30分であることを考えれば、案外間に合っている。僕は意外にも足が速いのかもしれない。

 別段オペラに興味があるわけでもないが、というか皆無だが、遅刻していくのはそれはそれでクラスからの視線が怖いので、とりあえず間に合って良かったと安堵する。

 どうやら少し階段で上がったところに受付があり、そこでチケットを見せて中へ入る方式らしい。

 列自体はまだ少し並んでいて時間はありそう。

 チケット自体は先日の班決めの際に貰って財布に入れた記憶があったので、僕はカバンから財布を取り出して中を探る。


 探る。


 探る。


「え、無い」


 思わず声が出てしまった。頭が真っ白になる。確かに入れたはずなのに、とわずかな苛立ちをぶつけるように少し乱暴に鞄の中も見る。

 自分のチケットの番が近づいてくる。


「笹川……だっけ? 落としてたぞ」


 そんな僕に一筋の蜘蛛の糸が垂れてきた。

 顔を見ると、確かクラスで青山といつも同じグループにいる男だった。確か、名前は赤城だったか。


「ありがとう、助かった」


 兎にも角にも、そんなクラスでの彼のことはどうでもよくて、僕は失われたと思っていたチケットが見つかったことに安堵し、そしてそれを見つけてくれた赤城にお礼を伝える。

 そして僕は早足でオペラの開演が近いホールへと小走りで向かった。


 *


 実際ホールに入ってみると、本当に開幕が近いのかと思うほどに中は騒がしかった。まあ、僕らの学校以外にも他の高校の制服も見えるし、客層のせいというのもあるんだろうけど。

 考えながら、事前に配信されていた資料をもとに僕の席へと向かう。

 僕の席は一番上の列の左側に通路がある角席で、これについてはラッキーだった。隣に人がいると言う状況は僕にとってあまり気分のいいものではなく、それが両脇ともなると尚更であったから、その不安が半減すると考えるとまさに僥倖と言ってもいい。


「すまんな、そこの横俺の席だから、先通してくれないか」


 座ろうとしていたところを後ろから呼び止められて振り向くと、そこにいたのは先ほど僕を救ってくれた救世主こと、赤城だった。


「ああ、そうだったんだ。ごめん、通って」


 僕は少し驚きながらも、赤城に道を譲る。なぜなら、


「あれ、赤城って僕たちの班だったっけ?」


 僕と赤城は普段学校で話すこともほとんどなく、時たま業務連絡で話すくらいの仲──つまるところほぼ初対面なので、正直名字を呼び捨てにするか迷ったが、まあ赤城に君付けも似合わないだろうと思って呼び捨てにする。それぐらいは日陰者にもわかる。

 確か赤城は班決めの時には休みで、てっきり青山達のグループに入ったのだと思っていたが。


「ああ、本当はそのはずだったんだけどな、ちょっと人数関係で休んでた俺だけ移動って。先生が」


 なるほど、それは災難なことだ。


「なるほど、それはなんとも」


 言葉を少し濁して僕は答える。

 このグループと青山のグループには雲泥の差がある。

 このグループには僕を筆頭としてクラスの日陰ものが集まっていて、だからと言って仲がいいわけでもない。もちろん中には仲がいい二人組の様な奴らもいるけれど、そいつらだって同じ穴の狢だから仲がいいわけで、正直日陰者だからと言って一緒くたにはしない方がいいと思う。僕らにもそれぞれの個性があって、日陰者の中にも合う合わないがあるのだ。

 ただこのグループに入っているような人間にはそんなことを主張する奴もいないし、第一この班はこれきりの関わりだと全員がわかっているから、あえて反抗する奴もいない。

 そうして僕たちはこの一年間、班決めの度に集まるのだろう。悲しきかな。


「まあな。でも良かったわ、笹川がいて」


 苦笑いしながら彼は答える。

 こんな僕にまでも気を遣って、赤城という男はきっと純粋にいい奴なのだろう。みんなで群れるから怖いだけで、実際一対一になってみればわかる。この世にそこまで悪い奴はいないんだと。


「いや、僕も赤城がいて良かったかもしれない」


 正直この班に話せる奴もいなかったので、明るく話を振ってくれる赤城は実際嬉しかった。


「なら、お互い様だな」


「そうだね」


 何がお互い様なのかはわからなかったが、とりあえず頷いておく。


「そうそう、笹川に聞きたいことが……」


 赤城が何かを言いかけたときだった。


「ねえ赤城、ちょっと頼み事があるんだけどさ」


 それを遮って、凛としたよく通る声が何かを頼もうとしていた。

 声の主は青山で、赤城はそれに気づくと、僕に「ちょっとすまんな」と断って青山と話を始めた。どこまでのいいやつだ。

 僕の横にある通路に立っている青山と僕の横に座っている赤城の話、つまりは僕に会話は筒抜けなわけで、聞いているうちに話はつかめてきた。まあそもそも隠す様な話でもないんだろうけれど。


 話を要約すると、青山の班でこの芸術鑑賞の課題の考察提出をやりたがる奴がいなくて、渋々青山がやることになったけれど、青山の班の場所は見にくいしあまり集中してオペラを見られる班員構成をしていないので、赤城と席を変わってほしいとのことだった。

 その話をききながら、僕は青山に恨めしく視線を送っていたが気付いていただろうか。いや気付いていただろう。

 班での課題提出なんて、どんな奴だろうと渋々でもやりたがらない。それが青山なら尚更。

 ではなぜ? 彼女はいきなりそんなことを言ってきたか。その理由はすぐにわかった。


 *


『……なんでこんなことを』


 僕は周囲に聞こえないぐらいの囁き声で隣でニヤニヤと笑う奴に声をかけた。

 そいつはそのにやけ面のまま答える。


『いや? 課題のためだけど?』


 にやけ面のムカつく奴──もとい僕の彼女である青山は僕を煽るように言葉を放つ。

 僕はそんな彼女に一つため息をついてからこう返してやる。できるだけ呆れたように。


『……もういいです』


『ごめんてー、笹川ぁー』


 青山は僕の呆れを感じたのか、少しだけ気まずそうにしながら返事をする。

 こんな瞬間にも青山は、どの場面を切り取っても美少女なのだろう。彼女の横顔が逆光に照らされるのが見えて、そう思う。

 オペラが始まったのかもしれない。


『……で、なんでこんなことを?』


 オペラが始まったことはひとまずどうでもよくて、僕は彼女に再びそう尋ねた。


『……笹川と、話したかった』


 逆光で見えないけれど、今の青山の顔はきっと恐ろしく可愛いのだろうなと思った。普段のリンとした表情とは違う、僕しか知らないであろう表情。

 そんな表情を想って仕舞えば、僕にわいていた少しの呆れや怒りなんてどうでもよくて、


『ま、いっか』


 やがてオペラのプロローグが終わって、煌々と光っていた照明が少し落とされる。


『ふふ、でしょ?』


 それ同時に青山が僕に笑いかけ、肘掛けにおいていた僕の手をそっと握った。

 その時の彼女はいつになく小悪魔的で、可愛い悪戯をする幼子の様なその表情は僕に手を握りかえさせるには十分すぎるものだった。


 正直なところ、僕も青山が恋しかったのかもしれない。

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