第28話

「美希っ!」


 叫ぶ泰一に、海斗と華凜が続く。

 池波は医療キットを取りに行くと言っていた。ということは、艦橋での何らかの危険な状況は一段落したということだ。


 そう判断できるだけの冷静さが自分に残っていたのは、海斗にとって驚きだった。だが、そんなことは今はどうでもいい。


「美希! お、おい、この血は……!」


 泰一の次に艦橋に乗り込んだ海斗の目に飛び込んできたもの。それは真っ赤な血だまりだった。その中央に美希が寝かされており、そばでは相模がぼんやりと突っ立っていた。


「艦長さん、何があったんです?」

「私が彼女を撃った。いや、自分を撃とうとしたんだが、跳弾で……」


 海斗は気づいた。相模の右目に大きめの絆創膏が張られていることに。致命傷ではないだろう。それより大変なのは、重傷を負った美希の方だ。


 海斗がそちらに向き直ろうとした、その時。


「うわっ!」

「どわっ!」

「ぐっ!」


 泰一が突き飛ばされてきた。その泰一が海斗を、そして海斗が相模を巻き込み、ドミノ倒しのような状況に陥った。


「あんたたちは下がってて! 池波先生が戻るまでに応急処置をするから!」


 泰一を突き飛ばした張本人、華凜が声を荒げる。そう言い終わるや否や、華凜は躊躇なく上着のブラウスを脱いだ。


「ちょっ、華凜、一体何を――」

「ここに消毒液ぐらいあるんでしょう? さっさと持ってきて!」


 コンソールに向かっていた下士官が、慌てて席を立つ。その間に、華凜はブラウスをびりびりに破いていた。

 突然服を脱がれるやら何やらで、海斗は呆気に取られた。


「か、華凜? 一体何を――」

「この布で止血する。美希、怪我したのはここだけ?」

「え、ええ……」


 痛みで意識を失いかけているらしい美希の横で、華凜はそっと彼女の被弾箇所を観察した。


「骨に異常はなし。ただ、動脈が切れてる。艦長、ここの医療設備はどの程度? いえ、医務官はどなた?」

「は、はッ、自分です」


 ようやく場に相応しい下士官が現れた。


「医務室に運ぶには、出血が多すぎる。ここで処置します」


 その遣り取りの間、海斗は華凜のブラウスの切れ端で、美希の上腕を押さえていた。ちなみに、消毒液をかける作業は華凜が既に施している。


 それから数秒と経たないうちに、池波が戻ってきた。海斗はすぐに身を引いて、場所を空ける。池波の手にしていた医療キットは充実したもので、華凜は下士官と池波に指示を出しながら、麻酔と傷口縫合の処置を行った。


         ※


 それから約二時間後。

 海斗は『しなの』の甲板に出て、海風に当たっていた。見えるのは一面の漆黒に、点々と輝く光点。晴れていて星がよく見えるためか、最早空と海の境界も判然としない。


 そこで動きを見せているのが艦船だ。『しなの』を含めてこの海域を包んでいた障壁は、既に消失したらしい。ぼんやりとした灯りの中で見えるのは、主に海上保安庁の船。海上自衛隊の駆逐艦も二、三見受けられたが、これはドラゴンの再出現に対応するための措置なのだろう。


 時たま、サーチライトが軽く網膜を刺激する。かと思えば、すぐさまぼんやりとした灯りに戻っていく。上空から差してくるのはヘリからのライトか。


「海斗、大丈夫?」


 突然声をかけられ、しかしゆっくりと海斗は振り返った。


「……華凜」


 どうしたんだと尋ねようとすると、先手を打たれた。


「美希は助かる。後遺症もなし。ただ、またいつもの生活に戻るには時間が要るって」

「そう、か」


 今の華凜は、流石に下着姿ではない。海上自衛隊のエムブレムの入ったジャケットを羽織っている。

 華凜は海斗の隣に歩み寄り、自らもまた手すりに身体を預けた。


 しばしの間、二人は無言で行き来する艦船を眺めていた。


「あなたには感謝してる。海斗」

「え?」


 突然の華凜の発言に、海斗は何事かと顔を向けた。華凜は相変わらず、漆黒の海面のどこかを見つめている。

 しばらく海斗が無言でいると、やれやれといった風情で華凜もこちらに向き直った。


「あなたは私の、いえ、ここにいる皆の命の恩人だよ。もしかしたら世界を救ったといえるかも」

「何だい、藪から棒に?」

「あのドラゴンが、SQが言った通りの破壊力を秘めているとしたら、日本だって沈没させられていたかもしれない。他の大陸も、意外とあっさり沈められてたりしてね」

「止めてくれよ、そんな話は」


 海斗は意思の疎通を図った時、あのドラゴンの在り様を感じ取っていた。意識は海斗からのみならず、ドラゴンからも送られていたのだ。

 だからこそ、ドラゴンが本気で怒り狂ったらどうなるのか、想像できてしまう。


「あいつを倒せるのは、それこそ核兵器くらいのものだよ。僕は、人間の行いでドラゴンが人間にとっての脅威になることだけは、どうしても避けてほしいと思ってる」


 顔を正面に戻した海斗に向かい、華凜は言葉を失っていた。

 遠山の指令があったとはいえ、そもそもドラゴンを怒らせたのは自分なのだ。その事実が華凜の胸を締めつけ、手摺を握る手をぎゅっと閉じさせる。


「海斗」

「何?」

「私のこと、責めないの?」

「華凜、君の境遇は聞かせてもらってる。あの状況であんなことを――ドラゴンの逆鱗を傷つけることをせざるを得なかったことは、理解はできてるつもりだ」

「そ、そう」


 しばしの沈黙。その間に二回ほど、サーチライトが二人の目を眩ませた。


「君は自由になるべきだよ、華凜」

「……は、はい?」


 唐突な海斗の言葉に、華凜はその意味を受け止めきれず、中途半端な声を喉から絞り出した。


「僕も泰一も美希も君も、普通の高校生とは違う道を歩んできた。でも、特別大変だったのは華凜だ」

「……同情でもしてるの?」

「いや」


 再び海斗が華凜に向き直った時、そこには厳つい表情が浮かんでいた。だが、それは華凜に対してのみならず、この世の中全体に対するものに思われた。


「こんなことに僕ら若者を利用して、責任を負わせようとした大人たちを、僕は許せない。そう言いたかったんだ」

「どうして私に?」

「君だって被害者だからだよ、華凜。ドラゴンを怒らせたからといって、それで犠牲者が出たわけじゃない。君は人を傷つけたかもしれないけれど、その未来を奪うようなことはしていないんだ。華凜は自分の人格までをも否定されるような罪を犯したわけじゃない。大人の都合でね」

「大人の、都合?」

「ああ。悪者探しをして、罪と責任を押しつけ合うような都合。不毛なものだと思う。だから華凜、いい加減大人っていう鎖から解放されるべきだよ」

「そう、かな」


 すると、またヘリのライトが降り注いできた。真上から回転翼の騒音が聞こえてくる。


「美希を連れていくみたいね」

「ああ。でも、僕たちはそうはいかないだろうな」

「事情聴取、よね。泰一も相模艦長も池波先生も――おじ様も」


 海斗はつと視線を空に向けながら、できるだけ自然な風を装って尋ねた。


「華凜、未だに味方でいるつもりなのかい? 遠山監督の?」


 華凜はしばし無言だった。それでも、ぎゅっと唇を噛み締める気配が伝わってくる。


「私にとって、おじ様が優しさの全てだったから。もしこれが警察沙汰になって、刑事裁判でも執り行われるっていうなら、私はおじ様を弁護する」

「どうやって?」


 華凜は海面に落としていた目を上げ、瞼をこれでもかと見開いた。それからゆっくりと、機械仕掛けの人形のように海斗に振り向いた。既に海斗は視線を戻し、華凜を見つめている。


 華凜だって分かっているのだ。自分がいかに遠山に依存していたか。肩入れしているか。加えて、自分がどれほど冷静さを欠いているか。

 それでも痛いほど理解している。理解できてしまう。自分には、遠山を弁護できるだけの材料などひとかけらもないということを。


 唐突に、頭上のスピーカーから相模の声が響き渡った。これから『しなの』は房総半島を回り、東京湾から横須賀に入港すると。


「真夏でも夜は冷えるな。華凜、艦内に戻ろう」

「……ええ」


 海斗は振り返りざまに、華凜の瞳から水滴が零れ落ちるのを認めた。他人にそのことを語る機会は、十中八九訪れないだろうが。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る