第27話

 ドラゴンの鼻先にしがみついて、どれほどの時間が流れただろう。自分の想像の範囲とはいえ、皆から聞いてきた想念は伝えきったはずだ。

 すると、軽くズボンの裾がぱたぱたと揺れた。それはドラゴンの鼻先から湧いた、いわば溜息のようなもの。


 ゆっくりと瞼を上げる海斗。すると、ちょうどドラゴンの右目と視線がかち合った。

 何かを伝えてくるわけでもなく、ましてや怒りや苛立ちをぶつけてくるのでもない。明確な想念がテレパシーで伝わってくるわけでもない。

 

 ただ少しばかり、海斗にも察知できたところがある――やれやれだ、と。

 ドラゴンは、もしかしたらとっくに怒りを鎮めていて、必死に思いを巡らす海斗に根負けしていたのかもしれない。


 するとドラゴンは、再び鼻先を魔法陣に近づけた。瞳の反射で、華凜が心配そうに自分を見つめていることを海斗は察した。

 しかし、それが杞憂であることは、当の海斗自身が一番よく知っていた。ドラゴンに攻撃の意志はない、ということだ。


「海斗!」

「華凜、できるだけのことはやって――って、うわあっ!」


 突然抱き着かれ、というか押し倒され、海斗は目が回った。

 ドラゴンの鼻息が微かに乱れる。……笑った、のだろうか?


 無事海斗が魔法陣に乗り移ったのを確認したのだろう、ドラゴンはするすると自らの身体を海面下に没していった。ほとんど水飛沫の立たない、穏やかな入水だった。


「あー……お二人さん? イチャつくのは構わねえが、せめて艦に戻ってからにしねえか?」


 気づけば、海斗と華凜はタグボートの上に無事着地していた。

 唐突に鼓膜を震わせたのは泰一の声。それに対し、華凜はすぐさま立ち上がり、海斗は押し倒された時にぶつけた後頭部を擦った。


(全く恥じらいがないのう、この年代の人間は)

「そ、それってどういう意味なの、SQ? 一二〇〇〇年前と比べたの?」


 やや棘のある華凜の言葉に『さてどんなもんじゃったかな』と逃げるSQ。いや、はぐらかしたというべきか。


「ああ、そうだSQ」

(んむ? どうした、色男)

「ぶふっ⁉」


 色男と称された海斗は、慌てて腕をぶんぶん振り回した。


(我輩に言いたいことがあったんじゃろ? 要件を言わんか)

「あ、ああ……。えっと、ドラゴンと意思疎通をする時に、長剣で角を一本斬っちゃったんだ。これってまずいのかい?」

(いや、どうということはあるまい。角の一本くらい、百二、三十年も経てば元通りじゃ。人間には長すぎるスパンかもしれんがの。それまであやつは、あのダンジョン最奥部の広間でのんびり過ごすことじゃろう)


 そう言って、SQはさも気楽そうに肩を竦めてみせた。

 すると、ちょうど『しなの』との通信を終えた池波が振り返り、三人とSQを見渡した。


「ドラゴンと思しき反応は、深海八〇〇〇メートルほどの地点で綺麗に消え去ったそうよ」

「ワープポイントを使ったのか……」

(ふむ、ということは、我輩もここらでおさらばするとしようかの)

「おさらば? おさらばって……おい、ちょっと待てよ!」


 突然別れを切り出され、泰一がずいっと前に出た。動揺の反動で足が勝手に動いたのかもしれない。


(我輩には、あのダンジョンを管理する義務と責任がある。それに、あとは人間同士で責任を負っていく段階じゃろうから、我輩が下手に介入することは許されん。ま、頑張ることじゃな。……ああ、我輩はあんまり別れ際がよくないと同族に言われたことがあってな。このくらい喋れば十分じゃろう?)

「ちょっと待って!」

(どうした、華凜?)

「また、会える?」

(我輩の気が向けば、な)


 華凜に向かって見事なウィンクをキメて見せてから、SQは綺麗な空中バク転をして、海面下へ――ダンジョンへと帰っていった。


 しかし、と海斗は考える。SQの言葉にあった『人間同士で責任を負っていく』とは一体どういう意味だ?


         ※


 イージス艦『しなの』艦橋にて。


「目標、ロストしました。池波教諭より、生徒たちは全員無事とのことです」

「了解」


 艦橋全体が、安堵の空気に満たされる。椅子に縛りつけられた遠山もまた、ふっと軽く息を漏らした。

 しかし、この場で一人だけ、緊張を解かない人物がいた。


「こちら艦長の相模三佐、全員その場を動くな」


 そうマイクに吹き込んだ相模は、腰元から拳銃を抜いた。たった今の安堵感が嘘のように、冷たいざわめきが彼を中心に広がる。

 しかし相模は意に介さない。淡々とカバーをスライドさせ、セーフティを解除して、自らの眉間に銃口を突きつけた。


「な、何をする気かね、相模くん!」

「責任を取ります」

「せ、責任?」


 目を見開く遠山を前に、相模は語った。


「これは高度な機密作戦であり、それが失敗したとなれば責任者が自らを裁くべきです。そういう意味ではあなたを撃つのが正しいのかもしれない、遠山監督」

「くっ!」


 遠山は椅子の上で身をよじったが、ロープで縛りつけられた身体はぴくりともしない。


「しかしあなたは私よりも、この国の防衛上重要な立場にいる。そしてこれは個人的感情だが……身体の不自由なあなたを殺傷することは、私にはできない」


 そう言って、相模は左手を掲げた。薬指にはシンプルな、落ち着きのある指輪が光っている。

 内心、妻子にすまないと告げてから、相模は右手で引き金を引いた。


 パン、という軽い音が艦橋に響く。

 鮮血が飛散し、相模が倒れ込む。


 しかし、倒れ込んだ人物は相模だけではなかった。それに銃弾は彼の表皮を掠めただけで、致命傷には程遠かった。


「死ぬな、馬鹿!」


 声の主を振り返り、相模も遠山も、艦橋にいた他の全員までもがぎょっとした。


「紺野、美希……」


 そう呟く頃になって、ようやく相模は状況を察した。自分は発砲の直前、目の前の少女に思いっきり突き飛ばされたのだ。


 相模が次に何をすべきか、ようやく頭を回転させ始めた時だった。美希がぺたり、と尻餅をつき、さっと左腕で右上腕を押さえた。どうしたのだろうか。

 そう尋ねようとして、相模は自分のしてしまったことに、心臓を掴みだされるような思いがした。


 跳弾した弾丸が、美希の腕を抉ったのだ。

 重傷か軽傷か? 他に負傷者は? 知りたいことは山々だ。しかし、それ以上に相模の心を揺さぶるものがあった。


 自衛官でありながら、民間人の、それも年端もゆかない少女を傷つけてしまった。その事実だ。


「いたっ……」


 美希は気丈にも、自分で傷口を押さえている。だが、そこからは細い真っ赤な筋が垂れてきて、夕日を反射している。


「艦長さん、私の父親、地震で亡くなったんです。私みたいな思いを、あなたの子供にはしてほしくありません。だから……」


『それで君は、私の自決を止めに入ったのか?』――そう言おうとした相模だが、奇妙な呻き声を上げるのが精いっぱいだった。お陰で、池波たちが戻ってきたという連絡を聞き逃していた。


         ※


「じゅ、銃声⁉」


 池波ははっと顔を上げた。ホバーバイクからすぐさま降りて、海斗たちの前に腕を掲げる。


「何かあったんですか?」

「待って、海斗くん。あなたたちはここにいて。私が戻ってくるまで。武器を手離さないでね」


 肝心の池波自身は丸腰。だが、ちょうどその場で射損じた美希の矢を見つけ、海面から拾い上げた。それで頭上を警戒しながら、素早く階段を上って行った。


「何があったんだよ、おい! ドラゴンはもう引っ込んだんだぜ、武器を使う必要なんて……」


 泰一の困惑顔の前を通り過ぎたのは華凜だ。


「私も状況査定に行く。あなたたちより訓練は受けてるから、大丈夫」

「なら、僕も」

「駄目だよ、海斗。あなたはここで泰一と一緒に待機して」

「それで気が済むわけがないだろう、一緒にドラゴンを宥めた仲なのに?」

「え?」


 華凜の頬が赤くなったのは、夕日のせいだけではあるまい。


「君が行くなら僕も行く。泰一、君は?」

「美希が怪我をした可能性もあるんだよな……。分かった、悪人は俺が金槌でぶん殴る!」

「……仕方ないわね」


 海斗、華凜、泰一の順で、三人は足早に池波の後を追った。

 華凜のナビゲートの下、海斗は軽い駆け足で階段や廊下を通り抜けていく。


「そこよ、海斗。その階段から艦橋に上がれる――」


『上がれるはず』と言いかけた華凜に応じようとして、海斗は何かにぶつかりかけた。


「うわっ!」

「ちょ、ちょっと、あなたたち!」


 池波だった。


「ホバーバイクのところにいろって言ったのに……。とにかくどいて。怪我人。思ったより重傷よ。私は医療キットを取ってくるけど、下手に動かせば太い血管が切れるかも」

「じゅ、重傷……?」

「美希さんが撃たれて――あっ」


 池波が自分の失言に気づいた時には、泰一が勢いよく皆を押し退け、艦橋に飛び込むところだった。

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