第20話
ゴォン! という凄まじい轟音が響き渡った。フロア全体の、膨大な体積の空気が鳴動する。ドラゴンが目を覚まし、その巨体に見合わぬ速度で尻尾を壁面に叩きつけたのだ。
今までにない砂塵と水滴が降り注ぎ、足元がぐらぐらと揺さぶられる。この振動は、ドラゴンの鼓動、怒りの血が煮え立つのを表しているのだ。海斗にはそう思われた。
直後、SQが咄嗟に空中に魔法陣を展開した。その内側には華凜がいて、立ち上がりながらも膝を震わせている。
硬質なものがぶつかり合う音が連続した。華凜に向けて放られてきた石片を、SQの魔法陣が防いだのだ。
今の一撃では、この階層が崩落する危険はない。しかし、ドラゴンはその巨体をもたげ、頭部を掲げている。ゆらゆらと体勢を立て直したこの怪物が、次に何をしだすか分からない。
四人とSQが見ている前で、ドラゴンの角の間に光が宿った。短い悲鳴を上げた美希が、泰一に縋りつく。バシュッ、と鋭い音がして、この場にいる全員の目が眩んだ。指の間から海斗が見ると、再びドラゴンが身体を打ちつけるところだった。
しかし、今回は尻尾ではない。頭だ。光を宿らせた角を、床面に押しつけている。ぶつかった瞬間に、ギィン、という鋭利な音が響き渡り、一瞬で指の隙間の光景が真っ暗になる。
とにかく距離を取らなければ。海斗は長剣を構えることもなく、慌てて後ずさった。すると、そこにはSQが作ったのと比較にならない大きな魔法陣が展開されていた。
床面に展開された巨大な魔法陣――学校のグラウンドほどはあるだろうか――に、再び頭をぶつけるドラゴン。いや、正確には違う。魔法陣は、ドラゴンの頭部を飲み込んでしまったのだ。
その長い体躯をうねらせながら、ドラゴンは吸い込まれていく。やがて鰭のついた尾が吸い込まれ、魔法陣がふわり、と浮き上がるようにして消え去った。
この階層に灯りが復旧したのは、次の瞬間のことだ。
しばしの間、誰も口を利かなかった。いや、利ける状態ではなかった。
まるまる一分も経とうというところだろうか。
「い、今のドラゴン、どこへ行った?」
「さ、さあ……」
泰一と美希が、ドラゴンの消えた床面を見つめながら呆然と言葉を発した。
海斗はさっと視線を階層全体に走らせる。やはりダンジョンは堅牢で、崩落の危険はなさそうだ。
しかし、彼がそれよりも心配していたのは、何と言っても華凜の存在だ。今は体育座りをしながら両耳に手を当て、がたがたと震えている。短剣は遠くに投げ出されていた。
泰一の前を通りながら、海斗は長剣を仕舞い込んで華凜に近づいていく。すたすたと足早に。だが、そこに誰かを責める意図はない。
「お、おい、海斗!」
「泰一、美希、二人共忘れ物がないか確認してくれ。武器が万全の状態で使えるかどうかも。SQ、海上の様子を見てきてもらえるかい? さっきみたいに」
(ああ、それは構わんが……)
「それじゃ、よろしく」
すると軽く手をひらひらさせて、海斗はSQに早く行くように促した。
「海斗、何をするつもりなの?」
「この事態の解決だよ、美希。もしかしたら、今すぐワープポイントで海上に戻るのは危険かもしれない」
「危険? どういうことだ?」
「泰一も知ってるだろう? イージス艦が待機してるってことは」
「まあ、説明は聞いてるが……。って、まさか!」
「あのドラゴン、イージス艦と戦う気なのかもしれない。SQが知らせてくれたところでは、あそこにいる大人たちには後ろ暗いところがあるみたいだしね」
そう言いながら、海斗は華凜の前で足を止めた。
「華凜、君が過去を示してくれたお陰で、僕たちはここまで来られた。君にご両親がいないのと同じで、僕には父親がいない。可哀そうだと嘆かれたことだって、一度や二度じゃない。でも、だからと言って子供である僕たちまでもが、自分自身を危険に晒す必要はないんだ。そんなの、馬鹿げてる」
「……馬鹿げてる、だって?」
「そうだよ」
顔を半分上げた華凜の前にひざまずき、海斗は大きく頷いた。
「子供の幸せを願わない親なんていないよ。でも大人である以上、親だからといって何事からも解放されるってわけじゃない」
「だから私の父上の殉職はやむを得ないことだ、とでも言いたいのか?」
「違う」
ぎらり、と熱い光を帯びた華凜の目から視線を逸らさずに、海斗は静かに否定した。
「君のお父さんが亡くなったのは運命だとか、そんな冷たいことを言うつもりはない。大体、僕だって自分の父親が亡くなったってことを、すんなり理解できてるわけじゃない。だけど――」
海斗は唇を湿らせた。
「だけど自分の子供が、自分の後追いをするみたいに危険に身を晒すなんて、そんなことを望む親はいないよ」
「何を偉そうに!」
勢いよく立ち上がり、華凜は口角泡を飛ばしながら喚き出した。
「父上は名誉の死を遂げた! それが本望だったんだ! なら、私にはその遺志を継いで国に殉ずる責務が――」
責務がある、と言おうとした華凜は、しかしそこで口を閉ざした。
感知できたからだ。海斗が長剣の柄に手を遣るのが。
短剣を失った自分が、この距離で長剣を抜刀されたら間違いなく避けられない。そして海斗は本気だ。負傷で済むか殺されるか、それは海斗のみぞ知るところだが。
最早逃げ場はないし、避けられない。華凜はすっと目を閉じ、震える喉を通して空気を出し入れした。
目を閉じていても、目の前にいる海斗の気配は感じられる。真っ暗な視界の中で、燃え盛るような怒気を帯びた人型が浮かび上がっている。
まさか、こんなところで命を落とすことになろうとは――。
それ以上の思考をぶった切るようにして、がぁん、と鈍い音がした。これが首を刎ねられる音か。そう考えることで、華凜は緊張と恐怖を押さえ込もうとした。
ん? 『考えた』? 自分はもう死んでしまったのではないのか?
どういうことかを確かめるべく、うっすらと目を見開く。それより早く、海斗の声が鼓膜を震わせた。
「僕は剣術なんて習った経験はないけど、この長剣とは相性がいいみたいだ」
「どういうこと?」
「怒りを全身から発して、本当に殺される瞬間はどういうものなのか、君に感じてほしかったんだ。危うく君の首の皮を斬るところだったけど、この長剣がブレーキをかけてくれた」
そう言うと、海斗はするっと慣れた所作で長剣を鞘に格納した。
「皆、今は海上で何が起こっているのか、SQからの報告を待とう。八〇〇〇メートル頭上はきっと――戦場になる」
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