第10話【第三章】

【第三章】


 自分が倒れてさほど時間が経っていないことは、海斗にはすぐに察せられた。さっきの貝の毒の粉といい、件の回転斬りといい、気を失ってばかりいるような気がする。


 そこまでを思い出したため、海斗は自分が仰向けに寝かされていることに違和感はなかった。どうやら四肢も胴体も無事らしい。顔にも痛みは感じない。


「んっ……」


 軽く呻くと、視界の右側からぴょこん、と顔が覗いた。華凜だ。


「海斗くん、お目覚めですか?」

「む……」


 確かに意識は取り戻した。しかし、視界が狭い。右側が特に。


「華凜、僕は……ああいや、皆は怪我してないかい?」

「ええ、大丈夫ですわ」


 それはよかった、と言おうとしたが、やはり右の視界が気になる。何だこれは?

 海斗は『それ』を押し退けようと、躊躇なく右腕を押し当てた。


「ひゃん!」

「ん? ひゃん? 今の、華凜の声?」


 返答はない。代わりに、華凜の顔が見える範囲だけでも真っ赤に染まっていく。

 そういえば、やたらと寝心地がいいな。小さい頃、よく母親に膝枕をしてもらったことを思い出して――ん? 膝枕?


「ああ、ごめん華凜。わざわざ膝枕なんてしてくれたんだね」

「……」

「ところで、この弾力のある出っ張りは? ちょっとどかしてほしいんだけど」

「……」


 SQが何か言いかけたようだが、手遅れだった。


「それは華凜のおっぱいだよ、このド変態!」


 眉間に何者か――後で知らされたところでは美希――の鉄拳を喰らい、海斗の意識は再び飛んだ。


 それから約三分後。

 海斗は再び気がついたわけだが、どうにも後頭部が痛い。今回は誰も膝枕をしてくれなかったようだ。

 ――などと、悠長なことを言っている暇はなかった。


「海斗、ちょっと」


 振り向くと、ぴしりと正座した美希と華凜の姿が目に入った。泰一はやや離れたところで、これまた正座をしながら俯いている。

 そう言えば、美希に呼び捨てにされたのってこれが初めてだなと、海斗はぼんやり考える。


 そう思うや否や、美希はさっと立ち上がった。海斗の横に回り込み、後頭部に手を当て、ぐわん! と思いっきり頭を下げさせる。危うく鼻先が床に接触するところだった。


「いてっ! いててててっ! 何するんだよ、美希!」

「それはこっち……じゃない、華凜の台詞よ!」

「え……?」


 海斗が視線をずらすと、そこにはやはり、顔を真っ赤にして目線を逸らそうとしている華凜の姿があった。


「か、華凜、僕が一体何を――あ」

「おい、『あ』じゃねえよ、『あ』じゃ! 女子の胸揉んどいて詫びの言葉の一つも出ねえのか!」


 海斗は内心、美希の豹変ぶりに呆気に取られた。だが、彼女の言葉の意味が分かってくるにつれ、嫌な汗が額と言わず背中と言わず、全身から溢れ出てきた。

 

 自分は華凜に膝枕をしてもらっていた。それだけならまだよかったかもしれない。だがあろうことか、意識が朦朧としている最中に、柔らかい何かに触れて……というよりその何かを思いっきり掴んでしまった。それこそ、華凜の胸だったのだろう。


「どわああああああっ!」


 海斗は正座したまま、勢いよく後退した。


「ごめんなさいごめんなさいすみませんすみません完全に僕の落ち度です認めますだから許してください‼」


 完璧な土下座。それを見た美希は、顎で海斗の方を指しながら、どうするべきかの判断を華凜に問うた。

 海斗は沈黙し、ガタガタ震えている。学校でぼっちを自認していても、こんな謝罪はしたことがない。

 そんな彼の頭頂部を見つめながら、華凜は言った。それはそれは優しい声音で。


「ねえ海斗くん、わたくし思うんですわ。人間である以上、間違いを犯さない人なんていない、って。だから、許して差し上げます」

「ほ、本当に?」


 希望に目を光らせながら海斗が顔を上げると、そこには華凜の満面の笑み。

 そしてその口から、全く同じ口調でこう声をかけられた。


「次にやったら、お命頂戴いたしますわね」


 語尾に音符記号でもつきそうな、明るい声音だ。

 海斗は混乱した。華凜は今、自分がどんな顔で、どんな言葉を発しているのか、分かっていないのか?

 その疑問が相乗効果を生んで、海斗はますます震えが止まらなくなった。


「まあまあ、そのへんにしとけ、お前ら」


 助け船を出す泰一を美希が睨みつけるが、あまり効果はなかった様子。

 

「仲間割れしてても始まらねえ。海斗が無事なら、さっさと進むぞ。皆、自分の得物を確認しろ」


 海斗は自分の左胸に手を当て、荒い呼吸が整うのを待ってから、リュックサックと長剣を手に取った。


         ※


 次の階層の松明が灯った時、そこには何もいなかった。ドラゴンフィッシュがいたような水槽もどきも設置されていない。と、いうことは。


「あ、あの、泰一……」

「分かってる」


 そっと手を泰一に差し伸べる美希。それを握り返す泰一。

 二人が何を危惧しているかは、海斗にはすぐに察せられた。怪物の出現に伴う地震だ。


 僅かながら美希に反感を抱いていた海斗だが、そんなものはすぐに霧散した。美希にも安心して戦ってもらう必要がある。

 どうにか地震は克服してもらいたいところ。しかしながら、それが容易でないことも海斗は理解している。理解できてしまう。


 どうしたものかと海斗が頭を回転させていると、不吉な感覚が足元から伝わってきた。階層全体が自分たちを脅しているかのようだ。

 美希が必死に悲鳴を上げまいとしているのが伝わってくる。


「泰一! 美希は無事か!」

「今は黙ってろ!」


 海斗が前方に視線を戻すと、前方の床面が盛り上がった。床面を構成していた石畳が崩れ去る。そしてその下から、この階層の怪物が姿を現した。


 まず目に入ったのは、足と思しき棒状のものだ。細く節くれ立ったそれが一本、二本と穴から湧いてくる。やがて胴体が、ぬっと出てきた。

 こいつは水族館で見たことがある。タカアシガニだ。元々世界最大のカニの類だと聞いていたが、怪物とあってはその大きさは圧倒的だった。道理でこの階層は天井が高いわけだと、海斗は思った。


 甲羅は見るからに硬質だ。下手に斬りつけたら、長剣の方が刃こぼれを起こすかもしれない。弱そうなのは足、それも節の部分だろう。

 狙いはつけづらいが、攻めるならそこからだ。


「よし、僕が一気に斬りつける。それから泰一と連携して――」

「なら先陣はわたくしが!」


 そう声を上げたのは、後方で構えていた華凜だ。両手を腰の両脇に入れ、引っ張り出す。鈍色に輝く二本の短刀を。

 体勢を低くした華凜は、身を屈めてまるで陸上競技のクラウチングスタートのような格好で駆け出した。


 泰一や海斗が止める間もなく、単身強硬突撃を仕掛ける華凜。


「仕方ねえ、美希! あのカニの気を逸らせ! 俺も突撃する! 背中に当てるなよ!」

「で、でもあたし、足が震えて……」

「じゃあ、僕も突撃する!」

「駄目だ」


 泰一が厳しい表情で海斗を引き留めた。

 

「お前は倒れてばっかりだからな、今は休め」


 そう言う泰一の肩越しに、勢いよく火花が散っているのが見える。華凜の短刀とタカアシガニの脚部がぶつかり合っているのだ。


 キンキンキンキン、と短いスパンで鋭利な音が響く。しかし、顕著な効果は見られない。それをどうにかすべく、雄たけびを上げながら泰一がハンマーを構えて駆けていく。


 一方タカアシガニはといえば、痛くも痒くない様子だった。あんな華奢な脚部を有していながら、圧倒的に硬い。増してや、胴体を外部から破壊することなどできるのだろうか。


(ううむ、仕方あるまいのう)

「SQ、何か戦略があるのか?」

(まあ見ておれ。ほれ、皆の衆! ちょいと下がっておれ!)


 その言葉に飛び退く泰一と華凜。それを視界の端に捉えながら、SQは自分の眼前で手を動かし始めた。すると、そこにぽっかりと球体が現れた。それはSQの頭部と同じくらいの大きさがあり、真っ黒で紫電を帯びている。


 こんな時に似合いの呪文の詠唱などはなかった。ただ、そこにあったのは気迫。

魔弾とも言うべき球体が勢いよく回転を始める。


(でやあっ!)


 まるで人間が行う球技のボールのように、SQは頭上に掲げた魔弾を放り投げた。すると、思いがけない現象が起こった。タカアシガニが前方の足を翳し、防御態勢を取ったのだ。


 ヒュオッ、という背筋を凍らせるような不気味な音。それと共に勢いよく怪物に直撃した魔弾は、その場でタカアシガニと押し合いを始めた。

 バリバリッ! と落雷のような音と共に、タカアシガニを後退させていく魔弾。


 だがその時、海斗は気づいた。SQが身体をくらくらさせていることに。


「お、おいSQ!」


 慌てて駆け寄る。するとSQは、ゆっくりと横たわるように体勢を整えながら床に横たわった。

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