第6話

 状況を察すれば察するほど、逆に自身の心に穴が空いていく。そんな事態を前にして、泰一はおののいていた。真冬の夕刻、親子の団欒の席で、突然発生した暴力事件。

 父親の荒い呼吸、母親のすすり泣き、そしてそれをかき回すように、空しく響くテレビのニュース番組。


 そんな異様な空間を割ったのは、かたん、という軽い金属音だった。泰一が、自分のスプーンを取り落としたのだ。


「泰一、お前は部屋にいろ」

「で、でも父さん、母さんは……」

「いいから失せろ!」


 泰一は椅子から転がり落ちた。危うく自分にも、カレーライスの乗った皿が直撃するところだった。


 気づいた時、泰一は自室のベッドの上にいた。足をだらん、とぶらさげ、左胸に手を当てている。泰一はなんとか、状況を理解しようと努めた。が、それはまったくの徒労だった。


「父さん、どうしてあんな暴力を……」


 泰一の父親は警察官で、同僚からも尊敬されるほどの人格者だった。無論、躾は厳しかったが、家族に手を上げることなど一切なかった。

 そんな父親が、何故。


 その時、泰一の脳裏をよぎったもの。それは、偶然その日に学校で習った言葉だった。

 確か、『虎穴に入らずんば虎子を得ず』だったか。

 危険を避けていては大きな成功も有り得ない、という意味だったと記憶している。


 父親に何があったのか。何故暴力に走ったのか。何より母親は無事なのか。自分には確かめる義務がある。

 そう判断した泰一は、ゆっくりと部屋を出て廊下へ、階段へ、そしてダイニングの入り口へと進んでいった。

 妙に静まり返っている。人の気配はするのだが。


 ええい、まどろっこしい。半ば自棄を起こした泰一は、勢いよくドアを押し開け、ダイニングに踏み入った。

 スリッパを履いていたのは幸いだった。何故なら、部屋中に食器類の破片が散らばっていたからだ。


 ダイニングのこちら側で、母親がうずくまっている。額から出血しているが、先ほどよりも酷い暴力を受けた様子はない。

 問題は、その向かい側で膝を抱えて震えているもう一人の方だった。


「父……さん……?」


 涎を垂らす口元、焦点の合わない目線、小刻みに震える全身。これでは、どちらが被害者か分からない。

 父親が泰一の入室に気づいたのか否か、確かめる術はなかった。それでも父親は、酷く掠れた声でこう言った。


「もう……もう嫌だ……。自分が警察官だなんて……他人の規範になるなんて、もう、嫌だ……」


 泰一がその言葉を理解するより早く、インターホンが鳴り響いた。どうやら、食器の割れる音が尋常ではなかったために、近所の住民が通報したらしい。


《失礼、こちら警察署の者です。大原さん、何かトラブルなどありませんでしたか?》


 その頃になってようやく、泰一もまた、自身が放心状態であったことに気づかされた。


「俺は一体……何をしているんだ……?」


         ※


 言葉を切った泰一を前に、海斗、美希、華凜は神妙な面持ちで座っていた。SQは腕を組み、四人の周囲でぷかぷか浮いている。

 すっと泰一は息を吸って、続きを語った。


「親父は神経衰弱状態だったらしい。周囲からの期待だの、自分に対する厳しさだの、そんなもんで押し潰されちまったんだそうだ。だからあんなに弱々しく震えていたんだな」


 現場を見たのは無論泰一だけ。それでも海斗には、その光景が手に取るように想像させられた。


 泰一によれば、それ以来父親は突発的な暴力衝動を抑えることができず、精神病院に収監されることになった。自身も母親も、面会にはほとんど行っていないという。


「そんなことがあったからさ、俺は決めたんだ。強くなって、他人も自分も守れるような人間になろうって」


 なるほど、それがこの筋骨隆々とした大柄な体躯の由来か。今度は全員が、泰一の言葉に納得した。


「……なんだか悪いな、シケた話になっちまった」

「いや、そんなことはないよ、泰一」


 空虚な笑みを浮かべる泰一の言葉を真っ先に否定したのは、海斗だった。


「誰にだって、苦しい過去の一つや二つはあるよ。僕だってそう。でも、今泰一が自分の辛さを話してくれたのは有難いと思うよ。結束は高めておかないと。何が待ってるか分からないからね」


『責任』。この二文字が、海斗の脳裏で光り輝いている。自分には、皆を守ってダンジョン脱出へと導く責任がある。そう思うと、自然と手足の痺れが引いていくように思われた。


「よし、行こう。美希は弓矢の残りの本数を確認して。華凜は短剣に刃こぼれがないかを」


 すると、海斗を除く皆が、じっと海斗の顔に見入った。


「ど、どうしたんだい、皆?」

「ああ、いや。海斗、お前がいつの間に俺たちを呼び捨てするようになったのかと思って」

「あ」


 泰一の率直な指摘に、海斗は間抜けな音を喉から発する。


「ごめん、馴れ馴れしかったかな……?」

「そんなことないよ、海斗!」


 そう言って笑顔を見せたのは美希だ。


「あたし、よくネットで多人数RPGとかやるけど、やっぱり呼び捨てにしていた方が親近感って湧くもんだよ。あと、連帯感、とか?」

「それはわたくしにも分かる気が致しますわね」

「そ、そうかな……。じゃあ皆、改めてよろしく」


 海斗は微かに、しかし屈託のない笑顔を見せた。前回笑ったのがいつだったのかは、本人にも分からなかった。


         ※


 その一方。

 相模を始めとする『しなの』の乗員たちは、異様な緊張感に包まれていた。数週間、いや、数ヶ月ぶりになるかもしれない。

 米軍との合同演習を行った際の、ぴりぴりとした感覚に似ている。しかし、何かが違う。


「こんな子供らに重荷を背負わせることになろうとはな……」


 相模が呟いた。

 現在、彼はCICにいた。最新の情報解析にあたるには、どうしてもここに来る必要があったのだ。

 ところせましと配されたコンソールには、周辺海域の艦艇や航空機の様子がバッジシステムで表示されている。

 バッジとは、レーダーで捕捉された周辺の物体を、円や三角形で簡略化して表したものだ。それが、CIC中央の薄型ディスプレイに表示されている。


「彼らは確かに、目標地点到達後に進行中なのだな?」

「はッ、確かであります」


 オペレーターの明瞭な返答。それを耳にした相模は、自らを落ち着けるべく音のない深呼吸を数回繰り返した。

 

 あの海底古代遺跡に送り込んだのは、ただの少年少女ではない。選ばれた者たちだ。

 逆に言えば、彼らに上手くやってもらわなければ困る。でなければ、中央官庁のお偉方の首がいくつ飛ぶのか、見当もつかない。


 それだけの資金とリスクをつぎ込んで、その結果がどうなるかは相模の感知するところではない。

 自分は国防の任を担った者として、そしてこの場での前線指揮官として、目の前の問題に全力で立ち向かっていくしかない。それだけだ。


「私は一旦艦橋に戻る。連絡は密に頼む」

「はッ、了解しました」


 ドアを開ける。その向こうに池波の姿がないことに、心底ほっとした。

 確かに、池波がいると騒がしいし鬱陶しいという問題はある。だがそれ以上に、彼女の存在は相模にとって眩しすぎた。


 妻は自分の任務や活動を理解してくれている。そういう意味では、当然ながら妻の方が正しいし、共に在るべきだ。

 が、池波は逆だ。飽くまでも子供たちのことを思い、単純かつ高尚な思考回路に基づいて行動する。『民間人は引っ込んでいろ』などとはとても言えない。否、彼女が言わせない空気を作っている。


 相模は、今度こそ眉間に手を遣って目の上部を揉んだ。同時に、我ながら意外なほど深い溜息がついてきた。


 襟を整え、艦橋に向かう。すると、艦長席の隣に車椅子があり、白髪の老人が腰を下ろしていた。そのそばで控えているのは、自衛艦への乗艦を許可された専属の若い執事だ。


 軽く会釈すると、執事は老人の耳に口を寄せ、何事か囁いた。


「艦長? どれ、顔合わせといこう。おお! 君は相模修司くんではないか! もう二佐には――」

「いえ、まだ三佐であります、遠山睦・作戦司令長官」

「そうかそうか。まだまだ君には伸びしろがありそうだから、つい調子に乗ってしまった。それより、長い階級など不要だよ。面倒だろう? 監督とでも呼んでくれたまえ」


 白髪の老人――遠山睦は、やや大きめの口をにやり、と広げ、小さめの瞳で相模を見据えた。

 八十歳を超えてなお、防衛省外郭組織に圧倒的影響力を有する、今作戦の『後ろ盾』。

 

「では遠山監督、作戦前から伺いたかったのですが」


 ゆっくりと鷹揚に頷く遠山。


「どうして海底遺跡の調査に向かわせるのが高校生たちだったんです?」

「ああ、それは全くの偶然だよ、相模くん。後程説明する用意がある。その頃には、君も若者たちも英雄だ」

「……」

「ん? 何かご不満かね?」

「いえ。ただ、自分たちが何をやらされているのか、我々大人でさえ分かっていないのです。高校生たちの身に何かあった時の責任は、誰が、どのようにお取りになるのでしょうか?」


 すると、遠山はますます口角を上げ、車椅子に座り直した。


「なんにも心配はいらんよ、相模くん。大人の都合というやつだ」

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